第一章 -5- 堕天

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 音は空気を震わせはしないのに、サリエルの声は不思議な旋律を帯びてディエルに届く。彼女本来の声を聞いたのは、いつだっただろうかとディエルは過去を振り返る。ある日を境に、彼女は声を封じた。春に啼く小鳥のように優しく美しい声を、今は誰も知らない。彼女は決して口を開かず、魔術によって言葉を紡ぐだけだ。 「……散歩中の休憩ですよ、女神」  とても休憩などでは立ち入る事のできぬ場所だが、ディエルは微笑を浮かべたまま平然と言ってのける。 『そうですか。……休憩のお時間は如何ほど?』 「貴方のお望みのまま」 『では、少しだけわたくしに付き合ってください』  幼くも整った顔を綻ばせて、サリエルは口角を上げた。 『連日の追いかけっこ、勝利を収める事はできましたか?』  サリエルが誰の事を言っているのか察したディエルは、苦く笑った。  普段は勤めて冷静なディエルが、追いかけっこを興ずる相手は一人しかいない。姿こそ老人だが、ディエルはまだ若年の天使に引けを取らないだけの力がある。規則違反の天使を捕まえるなど、赤子の首を捻るくらいに簡単な事なのだ。しかし、一人だけディエルの腕をいとも容易くすり抜ける小鳥がいた。月に愛された、琥珀色の瞳を持つ青年。  思い起こせば、本日の朝も取り逃がした。あと少しというところまで追い詰めるのに、捕らえる事はできない。それはまるで、空で遊び揺れる羽根を相手にしているようなものだ。捕らえようと手を伸ばせば伸ばすほど遠ざかっていく。気まぐれに近づいてくるのに、決してディエルの手には落ちない。     
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