第一章 -3- 脱走

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 黒塗りされた闇に、ひとしずくの透明な涙が零れた。  雫は音も無く、漆黒の深淵にかき消されるようにして消える。  右も左も存在しない常闇の中には天と地の理も無く、重力すらも感じさせない。濃い闇は霧のようで、触れる事無くただ全てを黒く染め上げている。  暗くわびしい空間だった。  その中で、一人の娘が泣いていた。  一人きりの寂しさを儚んで、取り残される悲しみを涙に代えて。  娘は真珠色の頬に透明な雫を零した。  両手で瞳を覆い、娘は掠れて消え入りそうなほど小さい声で何かを囁く。薄紅色の薔薇の蕾に似た唇を震わせて、娘は叶わぬ願いを暗闇に向かい投げかけた。その声は悲哀に満ちていて、零れる涙は途切れる事無く永遠に悲しみだけを訴える。  けれど何も存在しない闇の中では、誰も彼女に気付かない。  澄んだ嘆きの声も、絶え間なく零れ落ちる透明な涙も、光すら届かない闇の中に飲み込まれて消えていく。  今にも闇に溶けてしまいそうなその姿が、あまりにも憐れで、それを見ていた青年は手を伸ばした。  しかし、頬を滑る涙を拭ってやろうとした手は届かなかった。  娘は何かに縋るように、闇の彼方へ白く細い腕を伸ばす。 『――いかないで』     
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