2.過去

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「え、何? つるさんはまるまるむし?」 「……ずいぶん大胆な聞き間違いだな」  案の定、耳慣れない単語に首をかしげた周防に、もういい、と言わんばかりに安積がふたたび文字のうえに視線を落とす。その横顔は、すでに周防からいっさいの興味を失ってしまったかのように妙に冷めていて、暗にこれ以上自分に関わるな、という拒絶の意思をもほのめかしているふうに見えた。  ──そんな彼に対して、そのあと自分が取った行動の理由を、十年経った今でも周防は説明できない。  こんなひねくれ者の転校生など、別に放っておいてさっさと帰ってしまえば良かったのだ。たとえそのときは腹が立っていても、きっと日常のせわしなさにまぎれてすぐに忘れてしまう。  そうすれば、周防にとって安積は、今ではたまに思い出す程度の、ちょっと変わった同級生として、記憶の片隅にほんのわずか残るだけの存在でいたはずだった。  ……そうだ、そうなるはずだったのに。 「──……おい、何する……!」  気が付いたら、安積が手にしていた文庫本を真上からかっさらっていた。  そうして、本屋のカバーが掛けられた状態の表紙に、持っていた油性ペンを歌の調子に合わせてゆっくりと滑らせる。 「つ、る、さん、は、まる、まる、む、し、……っと。──ほら、できた」  そうやって、紙のうえに出現した老人風の落書きを示すと、横でその様子を呆然と見つめていた安積が信じられないと言ったふうに口許をわななかせる。
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