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 自分のぶんの食器を手早く洗ってから、ふと、いつもこのくらいの時間になると、餌を求めて足もとにすり寄ってくる愛猫のすがたがないことに気付く。人間で言えばもう十分高齢者の域に達する年齢の彼女は、最近、餌の回数が減り、ひたすら眠り続けることが多くなった。 「カンナー?」  もしかして、という予感とともに台所の隣にある六畳間を覗くと、ふとかすかな異臭が鼻先をかすめる。今では慣れてしまったが、ふだんは嗅ぎ付けないその独特の臭気が、そこに病人がいるという現実を否応なく周防に知らしめた。 「──親父、起きてるか? ……あ、カンナも、やっぱりここにいた」 「おう、周防、おはよう。今朝もさっそくやらかしたみたいだな、あの坊が」  こっちにまで騒ぎが聞こえてきたぞ、と介護用のリクライニング式ベッドに横になったまま、周防の父親──宮原直臣(ただおみ)が破顔一笑する。そのベッドの足もとでは、くるりと丸まった毛玉の背中が呼吸に合わせてかすかに上下していた。 「何だ、聞こえてたのか。それなら話が早い。……なあ、あいつ、親父の権限で首にできないかな? 毎日毎日、このままじゃ、俺の方がどうにかなっちまう」 「ばか言え。俺にそんな権限なんかないことくらい、おまえがいちばんよく分かってるだろうに。それに今は……何つったっけ、そうだ、労基とかがうるさいんだろ? 確か、よっぽどの理由がなければ首になんかできないはずだ」  ベッドの前の畳にあぐらを掻いて惨状を訴える息子に、どこか今の状況を楽しんでいるようにも見える笑顔で直臣がその要求をすげなく一蹴する。笑うと、目尻にしわが寄って、かつては荒くれものが多い海の男相手に一歩も引かなかったという狷介さの代わりに、もと商売人特有の愛嬌が顔を覗かせた。
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