Chapter 3

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 そのうち施術の終わったお婆さんが待合スペースに戻ってきて、尚晴の隣に腰掛けた。他の場所は全て空いている。それなのに近くに座られて少し居心地を悪くしていると、お婆さんはまるで旧知の仲のように話し掛けてきた。 「どうも、お先です」 「――あ、どうも」  緊張から返事がワンテンポ遅れてしまった。 「良い先生ですよねぇ。こんなに親身に診て下さる所、他にありませんよ。私は前、大先生に診てもらってたんです」  恐らく、橘の父親のことだろう。尚晴は、そうなんですか、と頷いた。 「膝が痛くて我慢できなかった時にね、初めて啓(ひらく)先生に診ていただいて。ほら、大先生の方は予約しないとだめでしょ? すぐに空いてなくて。それからずっと啓先生に診てもらってるんです」 「そうなんですか、あ、僕は大先生のことは存じ上げなくて」  ろくな返答ができないまま、尚晴は鞄の中にそろっと読んでいた本を戻した。彼女はマイペースに服を整えながら話を続けた。 「お兄さんは、こっちに移転してから来られた方?」 「移転?」 「大きなお店ができたでしょ、前はあそこにあったんですよ。あの辺り、昔は大先生がいっぱい土地を持ってらっしゃったんです。私は本院に行くよりここの方が近いんですけど」  彼女が言っているのは、数年前、駅前開発でできた大型ショッピングモールのことだろう。尚晴が社宅を出て都心からこの街に越してきた後、不動産価値が上がり続けていて、かなり賑わっている。 「ここは分院なんですか?」 「いずれは、啓先生がお一人でなさるかどなたか雇われるんじゃないですか? 大先生は学校もやってらっしゃるし、本院もあるから忙しいでしょ。最近、どんどん啓先生に診てもらう方も増えてきましたし」  質問に対しての明確な返事ではなかったが、何となく事情が分かってきた。 「そうなんですね……」  当たり障りのない相槌を打ちながら、もっと色々知りたくて堪らなかった。橘の父は、土地持ちで学校の先生だか経営もやっているのだろう。そうだとしたら、勝手に尚晴が思い込んでいた橘のバックグラウンドと実情は、大いにかけ離れているようだ。 
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