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「美郷さん、タクシー呼びますね」
橘に手首を掴まれ、尚晴は我に返った。何故タクシーなのか。そんなに遠い場所なのだろうか、それともそんなに急がないといけないのだろうか。平日の昼間、会社員の姉は仕事中だ。どういった状況で、どんな事故に遭ったのかもちゃんと聞けていない。情けなくて怖くて仕方がなかった。息苦しさに喉元をギュッと掴んで鞄を抱き締めた。
橘はタクシーを呼んでくれた後、二本目の電話を掛け始めた。
「父さん? 俺だけど、今、お越し下さってる患者さんのご家族が病院に運ばれて……ああ、うん。ちょっと早いけど、多分もう――ああ、もし午後からの――うん、そういうこと。勿論、分かってる……」
話をしながら橘は、施術台の奥にある仕切りの向こうへ入って行った。彼の姿が見えなくなると、尚晴は途方に暮れた。しっかりしないといけない。いくら最近、親しく話すことがあっても、それは尚晴の交流関係が狭いから特別視してしまうだけだ。橘に面倒を掛けるなんて、どうかしている。分かっていながら、尚晴は橘に頼っていた。
すぐに戻って来た橘はシンプルな黒いTシャツにジャケット、ジーンズという格好になっていた。初めて見る私服姿だと、自分とは一生縁のないような年下の男性に見えた。
「あの、僕……」
口を開いたところ、橘に腕を引かれ言葉が途切れた。
「行きますよ」
有無を言わせぬ口調で言われて、尚晴は口を噤んだ。外に出ると既にタクシーは着いていて、尚晴は戸惑いながら橘と一緒に後部座席に乗り込んだ。息苦しさを飲み下しながら、尚晴は道中ずっと黙っていた。
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