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【 16 】
真っ暗な水面に月が浮かんでいる。少し風が吹いているせいで、せっかくの満月が滲んでしまっている。天守閣の最上階から見た、燃えるような紅い伊那湖も美しかったけれど、今宵の景色もまた見事だと白縫は思う。
湖からそよそよと吹く風はもうすっかり冷たくなっている。伊那山に来てからどれくらい経っただろう。ふた月ほど離れていただけなのに、ここの澄んだ空気が懐かしく感じられる。あの頃は逃げることばかり考えていたのに、変われば変わるものだと、おかしくて笑ってしまう。
この美しい景色を見るのも今夜が最後だ。離れがたいけれど、長居をしてしまうとせっかくの決心が揺らいでしまう。溢れそうになる感情を必死で堪えた白縫は、一つ息を吐くと、湖に背を向けた。
そろそろ龍の姿に戻ろう。蓬莱山までは龍の姿でないと行くことができない。その前に、白縫は辺りに誰もいないかを確かめた。人間でない姿を、伊那山の領民に見られたくなかった。領民達には白縫の人間の姿だけを覚えていて欲しかったのだ。
龍の姿に変わろうとした時、薄暗い林の中から人影が現れた。一瞬びくっと身を強ばらせた。よく目を凝らしてみれば、いつもの青っぽい着物を着た蒼馬だった。白縫は後ろめたい感情を覚え、思わず後ずさりする。
「蒼馬……なぜ、ここに?」
誰にも言っていないのに、白縫がここにいるとなぜわかったのだろう。それともただの偶然?
木々の葉はすっかり落ちて、足元には枯葉が敷き詰められている。がさ、がさ、と枯葉を踏み締めながら、蒼馬が近寄ってきた。
「蒋子と申す男に、お前が湖にいると聞いた」
「蒋子様が? 蒋子様がなぜ蒼馬のところに参られたのだ?」
今更蒼馬に文句でも告げに行ったのだろうか。白縫の命を返せとか何とか。
「白縫がここに来るから、行って話をして来いと。あれは何者だ? 突然現れて、言いたいことだけ言って、突然消えたぞ」
蒋子は気まぐれな男なのだ。相変わらずだなと、白縫はくすりと笑った。蒋子の正体をあまり人には教えたくないが、蒼馬ならいいだろう。
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