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七尾さんの瞳がぐっともり上がって、涙があふれて頬を伝った。嘘だろ。何だよこの状況。七尾さんは、両手で口を覆って肩を大きく上下させながら、嗚咽を殺して語り始めた。とぎれとぎれに彼女が告白したのは、以下のような信じがたい内容だった。
『さっき早退して店を出る前に、七尾さんは、何とかという致死性のある毒物を、ショーケースに並んだチョコレートケーキのうちの一つの生地の隙間にスポイトで注入した』
頭が真っ白になり、なぜか、ぼくは、あわてて周囲を見回した。「ねえ、あたし、どうしたらいい?」。七尾さんが今にも消え入りそうな声をあげた。どうするもこうするもない。一刻も早くその毒入りケーキを事情を知っているぼくらが買わなければならない。もちろん、まだ売れていないという前提だが。七尾さんが言うには、店を出たときチョコレートケーキはトレーに二つだけ残っていたらしい。すぐに店の前まで移動し、彼女に確認してもらったところ、店を出たときのままらしい。少しほっとした。二個のうちどちらなのかは「覚えていない」ということなので、二個とも買うしかない。七尾さんにはベンチで待っていてもらい、ぼくが買いに行った。ケーキ屋に入るのにこれほどどきどきしたのは初めてだった。
無事にケーキ二個を買ってベンチに戻った。七尾さんは、眼がまだ少し涙っぽかったが、ほっとしたのか落ち着いたようすでケーキ二個分の代金を返してくれた。そのときになってぼくはようやく気づいたのだ。七尾さんに出くわしていなければ、ぼくはチョコレートケーキを買って食べていたのだ。そして、今頃死んでいたのかもしれないのだ。五十パーセントの確率で。急に怖くなって、箱をコンビニのゴミ箱につっこもうとした。「待って」。七尾さんがぼくの腕をつかんだ。
「何するんだよ。早く捨てちゃおうよ」
七尾さんは無視して、ぼくの手から箱を奪いとった。びっくりするほど強い力だった。
「お金払ったんだから、あたしのものでしょ」
七尾さんはベンチに腰をおろして箱を開けると、ケーキを一つ手にして、いきなりかじりついた。声をだすヒマも止めるヒマもなかった。何だよ。狂ったのか?
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