天使のささやき

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天使のささやき

 車両に流れる気だるげなアナウンスと共に、大勢の人々が押し出されていく。朝の通勤ラッシュの時間帯はとっくに過ぎているにもかかわらず、座席に座れないで立っている人の姿が点々としている。そしてこの駅でも新たに人が乗り込んで、またしても車両の中は圧迫された。  うつむいてスマートフォンをいじっていたアキラの前にも、後ろから押し込まれた人がなだれ込んでくる。ゆったりとした茶色のロングスカート。アキラの前にはどうやら女が来たようだった。何気なく顔を上げて見ると、その腹は大きく膨れ上がっていた。  その姿を見るや否や、アキラは咄嗟に目を伏せた。そうして居心地が悪そうに位置を直した。そうした行動は別に座席に座っていたかったからというわけではない。ただ電車の中という閉ざされた空間で、大勢の人を前にして席を譲るという行為に、多少の恥じらいの気持ちを抱いたからであった。  アキラは瞬間的にそのような態度を取ってしまう自分を嫌悪した。それでもアキラは妊婦に気づかない振りをしてしまった。誰かしらほかの人が席を譲るだろうという歯がゆい期待と、席を譲りたくてもできない自分の情けなさ、女に対する申し訳なさが入り混じっていた。  落ち着かない気分でそわそわしていると、どこからともなく、それは現れた。 (席を譲れよ)  突然耳元でしたその声に驚いて、アキラは思わず座席から立ち上がった。慌てて周りを見渡しても、その声の主らしき人物は見当たらなかった。それどころか反ってほかの乗客から怪訝な眼差しを向けられた。その視線で我に返ったアキラは、急に恥ずかしさが込み上げて身動きが取れなくなった。すると再びアキラの腰の辺りから呆れたような声が聞こえてきた。  振り返って見るとそこには、銀色の輪を頭に乗せた小人のようなものがぷかぷかと宙に浮かんでいた。その大きさは隣に座っている男の顔と同じくらいだろうか。そしてその体は顔に比べてかなり小さく、およそ三頭身ほどで、よく見るとアキラに瓜二つであった。  驚きのあまり言葉も発せないまま後ずさりしていると、小人は再び口を開いた。 (なにやってんだ。後ろの女の人もびっくりしてるぞ。早く譲ってやれよ)  その言葉でふと思い出したアキラは、かすれた声でなんとか妊婦に席を譲った。妊婦は少し不思議そうにしていたが、それでも笑顔でアキラに礼を述べた。       
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