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今事務所に大慌てで飛び込んできた男、針筵慎之輔は、鯖虎探偵の助手だ。まるっこい顔にポマードでかためた髪がぴったりと張り付いている。この髪型は、台風程度の風では絶対に変形しない頑丈なつくりだ。まるで丈夫な万年筆で力まかせに引いた線のような眼をいっぱいに開いて(いるつもりなのだろう)、非常事態を懸命にアッピールしている。
探偵助手といっても本業は近所のバー「ボブテール」のマスターだ。店の売り上げなどあてにしなくていいご身分らしく、店は女の子にまかせてもっぱらここ鯖虎探偵社に入り浸り、無給の押しかけ探偵助手をやっているのだ。
針筵助手の話によるとこうだ。
板橋区志村の一軒家で男の死体が発見された。それが今調査中の案件の依頼人だ、というのだ。
「やばいですよ」
「ふむ。」
そう答えて、鯖虎探偵は続けた。
「お金の事なら心配ないよ。うちは全額前払い制だから」
「いやいやいやいや、先生、そうじゃないでしょ」
針筵は、ハンカチで額をごしごしこすった。
「そういう事じゃなくて、いやだなぁ、ころされたんですよ、先生。殺人ですよ殺人事件」
「ふーむ。しかし、いいか針筵君。依頼人のプライベートに首をつっこんじゃいかんね。我々は職人なんだから、依頼された仕事だけを黙々とこなす。そのクオリティに対してお金を頂戴する、それだけなんだよ。依頼人が巻き込まれた殺人事件なんてプライベートの極致でしょうに」
「そりゃそうですけど …」
言葉に詰まった針筵は、未練がましくぶつぶつなにか呟いている。
「事件なのにな. …」
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