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翌日、翠が寝坊をした。
それによって記者団に対しての「ぶら下がり取材」という、首相への質問のチャンスを逃してしまった。それは小泉内閣の時にはほぼ毎日行われていたが、民主党政権に移行して途絶え、自民党政権へ戻った今でも、久しく行われていなかったこと。
静江は翠をデスクに呼び出し、仲間がいる中で激しい叱責をした。
翠の俯く顔も握り締めた拳も、目の前に立つその姿すべてから悔しさがにじみ出ていた。
静江にとって初めて成功した仕返しだった。だけど、気持ちのコントロールを失って、最後にどうしても言わずにはいられない衝動に負けた。
「あんな汚らしい居酒屋で出る安いお酒なんて飲んでいるからそうなるのよ」
部下たちに聞こえるように言った。自分の評価が下がるのは理解していた。だけど、わからせてやりたかったのだ。真崎が安い女として扱っているんだってことを翠にも部下たちにも。
「知らないの? あのお店の鴨鍋が絶品なのよ。まぁ、星の数でしか評価出来ないあなたには無縁でしょうけど」
息を吹き返したような翠の反論。
声に出さずとも、部下たちの背中が笑っていた。真崎は逃げるように立ち去り、静江はその背中を見ることが出来なかった。
翠の言葉は真崎の言葉。言い方はどうであれ、真崎がそんな風に自分を見ていたのだと思ったからだった。
その日静江は、夕方の会議が終わると、仕事を早々に切り上げて会社を出た。
すると、走ってまであとを追いかけてきた翠。何か政府内で事件でも起きたのかって思ったけれど、呼びとめた翠の顔が笑っていた。
「あの人と結婚することになりました」
それだけ言って、翠は会社へ戻った。
静江は抜け殻のようになりながらも電車へ乗った。向かった先は自分の家ではなく、真崎の家。
翠と一緒に帰ってくるかと不安に思いながらも、健気な女を装って、玄関の前で待っていた。
真崎が帰って来たのは終電のなくなった深夜。約5時間も待っていた。
翠の姿はなく、タクシーでの帰宅。静江を見た真崎は声も出さずに驚いていた。
「結婚しないで! あの女とだけは結婚しないで・・・お願い。私と一緒になってくれなんて言わないから・・・お願い」
静江は真崎にしがみついて、その胸の中で泣いた。
だけど、真崎は腕を掴んで引きはがす。そして、静江の心を引き裂くように言った。
「子供が出来たんだ。2ヵ月になる」
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