長崎物語

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すでに寛永十年(一六三九)に発したキリシタン禁教・鎖国令によってヨーロッパ人の血を受けた混血児は日本から追放され、更に寛永十三年、長崎在住のポルトガル人と混血児二八七名のアモイ追放に加え、寛永十六年、お春達混血児十一名がジャワ島に追放されたのです。 お春たちが日本を追放されるその日、出島のそばにある船着場には、身寄りの者たちが集まっていました。奉行所からのお達しで、親兄弟しか見送りは許されませんでしたが、おたつだけは、家人が止めるのをふりきって見送りにきました。 「お春ちゃん、うちはいくらお上のおふれがあっても、きっと手紙ば出すけんね」 「うん、うちもきっと手紙書くけん」 こうして、お春を乗せた船は涙と共に、静かに日本を去っていきました。  それから一年が過ぎたある日、長崎の港にジャガタラに向うオランダ船が停泊していました。おたつは人を介して、お春宛の手紙を船長さんに頼みました。 お上に知れると重い罪になることでしたが、おたつはお春の事が気がかりでならなかったのです。  それから又一年が経った頃、そのオランダ船が長崎の港に戻ってきました。 「テガミ、オハルサンニ、ワタシマシタ。コレ、ヘン ジデス」 オランダ人の船長は、そっと色鮮やかな布を手渡してくれました。おたつはその布を広げてみると、お春の文字が書かれていました。 「あら日本恋しや、日本恋しや。もう二度と帰れぬ故郷(ふるさと)思えば、なみだにむせび……」     
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