長崎物語

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 四男三女を儲け、幸せな家庭を築き、一六七二年夫シモンの死後、お春は莫大な遺産を相続し、残された家族と共に豊かな生活を送った、といいます。  元禄五年(一六九二)年五月十七日、お春は遺言状を書き、若くして未亡人になった娘マリアや孫達に遺産を分配し、自らの手で「ぜらうにましるし」と、日本のひらがなで署名している。  そして一六九七年四月に七二歳で死去したという記録が残されています。 千はやぶる神無月とよ、うらめしの嵐や、まだ 宵月の、空も心もうちくもり、時雨とともにふ る里を、いでしその日を限りとなし、又、ふみ も見じ、芦原の、浦路はるかに、へだたれど、か よふ心のおくれねば、 おもひやるやまとの道のはるけきもゆめにま ちかくこえぬ夜ぞなき(後略)  そして、結びの文章は以下の通り。 。 あら日本恋しや、ゆかしや、みたや。          じゃがたら              はるより  お春は「千はやぶる神無月(かんなづき)とよ」で始まり「あら日本恋しやゆかしや、見たや…というジャガタラ文によって江戸時代から今日(こんにち)に至るまで、お春は、悲劇のヒロインとして知られ、短歌や流行歌にも歌われ人々の涙を 誘っています。  然しお春のジャガタラ文は、長崎の文人西川如見による創作といわれ、史実のお春との間には大きな落差がある。       
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