蝉の声

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

蝉の声

 鼓膜を劈くような夏の音。アラームの音さえ掻き消してしまうほどの蝉の声で目が覚めた。途端に噴き出す汗は、寝起きの僕を一瞬で不快な気持ちにしてくれる。夏は一度たりともすがすがしい朝を経験したことがない。小さい時に無意味なスタンプを集めに通っていたラジオ体操でいつも流れる「新しい朝」と「希望の朝」とやらを、いったいいくつになったら迎えることができるのだろうか。 「あっつ・・・」 今日もいつもと変わらない朝。ついに第一声まで同じになってしまった。これだから夏は嫌いだ。枕元のスマホに手を伸ばす。午前7時8分。今日もほとんどいつもと変わらない一日が始まる。  リビングにいくと父親が新聞を広げていた。 「今日は早いな。」 父親は最近発見された医療技術の一面記事を読んでいた。 「登校日。」 とだけ答えると、父親の後ろを通り過ぎキッチンへ行って冷蔵庫を開けた。 「今日は午前だけでしょ?学校の後すぐ塾へ行くの?」 母が目玉焼きを作りながらパンをトースターにかける。 「そうする。」 俺は冷蔵庫の冷気に癒されつつ牛乳を取り出した。物心ついたころからこうして毎朝牛乳を飲んでいても一向に身長が高くなる気配はない。現在161cm。平均よりも低い。せめてあと5cmほしい。いい加減やめればいいものを、習慣になってしまって以来、ずっと続けている。  そういえば夏休みに入ってから、朝に父親と会ったのは初めてかもしれない。決して家庭を顧みない仕事熱心な父親などではない。せっかくの夏休みなのに、普段通り早く起きて父親に会う用事もないから俺が早く起きないだけだ。 「チンッ」 テレビの音と父親が新聞をめくる音だけが流れるリビングに、パンの焼き上がりを知らせるトースターの高い音が鳴り響く。うちの家族の朝はいつも静かだ。別にこれといって仲が悪いわけでもない。休みには普通に三人で出かけたりもするし、家族の誕生日を祝ったりもする。だからその分、普段からこれといって話す話題もないのだ。今もこうして家族三人で母が運んできた朝ごはんを食べているあたり、そこらへんの反抗期の子どもを抱えた家庭よりはよっぽど幸せな家庭だろう。 「いってくるよ。」 父親が朝ごはんを早々に食べ終わり、仕事へ出かける。それを追う母を横目で見ながら、俺は朝ごはんの目玉焼きトーストに噛り付いた。  学校に行くと、当たり前のようにクラスメイトが雑談をしていた。夏休み終了間際の登校日でさえ、学校で起こることは普段と大して変わらない。いつもの様に昨日の夜のバラエティ番組の話で盛り上がっている。外でうるさく鳴いている蝉に負けず劣らず騒がしい教室で、俺は彼女を探す。  毎朝の牛乳に続き、自分の習慣になってしまっていること。それは、彼女を探すことだ。 見つけた。今日は俺の席の隣に座っている。他のクラスメイトよりも声が際立って聞こえるから、見つけるのはいつも容易い。今日も夏の日射しの眩しさに負けないくらいの笑顔を話しているクラスメイトに振りまきながら、ケラケラと笑っている。俺はいつも通り 「おはよ。」 とだけ挨拶を交わし、自分の席へ座る。彼女とは小2の時に同じクラスになってから8年間の友達だ。幼馴染とまではいかないものの、今もこうして会えば必ず挨拶をする仲だ。なぜ俺が毎朝教室に入ると彼女を探すようになったかは覚えていないが、同じクラスになるたびにずっと続けてしまっている。 「昨日のテレビみた?」 彼女が、クラスメイト達と話している話題を俺に振る。 「みたよ。」 「面白かったよねー!」 彼女がテレビ番組の内容について嬉々として話してくる。俺はそれに適当に相槌を打って合わせる。これもいつも通り。いつも通りのことなのに、ここ数か月は気が乗らない。というか、心なしか彼女に冷たく当たってしまっている気がする。いつも通りのことだから、いい加減飽きてきたのだろうか?それにしたって、自分は毎朝探しておいて失礼なことをしていると思う。しかも最近抱き始めた気持ちなのに、どこか懐かしい気もするし、寂しい気もする。どうも彼女のことになると不思議な気持ちになるのだ。しかし彼女に冷たいと思われていたらどうしよう。今も変わらず話しかけているあたり、多分大丈夫だろうけど。 「最近なんか冷たいよねー。」 突然彼女が言った。 「そう?」 ドキッとしてしまった。おそらく表情に出ているだろう。なにせ、今まさに考えていたことを指摘されたのだから。 「まぁいいけど。いつものことだし。」 彼女はそういうと、教室の前の方で盛り上がっているクラスメイトのところに行ってしまった。まずい。今すぐにでも追いかけて謝ったほうがいいだろうか。しかし、なんて言って謝ろうか。理由を聞かれたら?正直自分でも理由はわからない。そんなことを考えていたら、SHRの開始のチャイムが鳴って先生が入ってきてしまった。  いつもと同じ学校での生活。チャイムとともに動き、決められた予定通りに過ごす。今日もそうなるはずだった。しかし、どんなに周りがいつもと同じでも、俺の頭の中は今朝の彼女とのやり取りでいっぱいだった。最近冷たく当たってしまっていたことがついにばれてしまった。どうしよう。言い訳しようか。もし謝る機会を作ったとしても、また冷たくなってはしまわないだろうか。嫌われただろうか。そもそもなぜ冷たく当たってしまうようになったんだ?理由が全く見当たらない。いつ頃からなのかすら、もう覚えていない。なのにどこか懐かしい気もする。そういえば彼女は今朝 「いつものことだし。」 と言っていた。「いつものこと」?むしろすでにばれていたのか。なぜ彼女は気づいたときに言ってくれなかったのか。  そんなことばかりを考えている間、俺はずっとあの不思議な気持ちに襲われていた。最近彼女と話すたびに抱いていた不思議な気持ち。モヤモヤしたような、胸がふわふわする気持ちだ。今の俺にはとても言葉にすることができないだろう。この気持ちを懐かしむ感情もあるのだから、昔も感じたことがあるのだろう。  今日もいつもと変わらない日常が待っていると思っていたのに、まるで土の中のように何も変わらない出来事に取り囲まれて生活できると思っていたのに。いつもは自分も周りの土と何一つ変わらなかったはずなのに、今日に限っては自分だけ土の中にぽっかりと空いた穴の中に取り残された気分だ。雑音のように自分を置いて進んでいく日常の中に、自分の思考と蝉の鳴き声だけがぽつんと浮いているようだった。  額を伝わって目に入った汗のしずくが沁みてふと思考が途切れると、いつの間にか帰りのSHRが終わるところだった。困ったことに朝のSHRからの記憶が曖昧だ。無意識のうちに体が勝手に周りの日常に合わせていたのか。我ながら無意識の自分が恐ろしい。しかし午前中、体を無意識に預けてまで思考を張り巡らせて考えていたことは、まったく解決していない。そして今更だが、ここは考え事をするには暑すぎる。 「じゃあ残り少ない夏休みだけど、最後まで気を抜かないように!君たち受験生なんだから!」 チャイムにかき消されそうになった先生の最後の締めの言葉を辛うじて聞き取る。教室が一気に騒がしくなった。今から塾だ。塾ならエアコンも効いて涼しいだろう。少しは考えがまとまるかもしれない。俺は鞄を持って教室を後にした。  塾と学校は徒歩10分という近さだ。そのせいか、うちの中学校の生徒がかなり通っている。もちろん隣を一緒に歩いてる彼女も例外ではない。今朝の一件で気まずい。さっきからお互いに一言も発することもなく、ただただお互い無言で塾へ向かっている。この気まずい空気と、うだるような暑さと、鬱陶しいくらいの蝉の鳴き声が俺たちを襲う。もっとも、気まずい空気に襲われているのは俺だけかもしれないが。いま彼女は何を考えているのだろう。また胸がふわふわしだした。ホントになんなんだこの気持ちは。 「ねぇ。」 彼女が不意に話しかけてきてきた。 「今日ずっとうわの空だったけど、どうしたの?」 「いや・・・。別に。」 どうしてしまったのかはこっちが聞きたい。 「こんなこというの恥ずかしいんだけどね。私何故かいつも目でおっちゃうの。」 「なにを?」 「あなたを。いつの間にか変な癖になっちゃった。」 彼女が笑う。 「変な癖・・・だな。」 一瞬「変な癖は俺にもある」と言いそうになったがやめた。 「変な癖はお互い様でしょ?いつも朝私のこと探してるでしょ。」 本日二度目のドキッ。 「そんなことない。」 「そんなことあるよ。いつもあなたのこと見てる私が言うんだから間違いない。」 彼女が意地悪な笑顔で続ける。 「うん。」 どんどん心拍数が上がっていくのがわかる。冷たく接してしまっていること以外にも、俺の彼女を探してしまう癖もばれていた。猛烈に恥ずかしい。日常という土の中にいる俺からしてみたら、自分が見られていることなんて全く気付かなかった。彼女のことも俺を取り囲む土の一部だと思っていたのかもしれない。むしろそう思っていた。何せ8年もほとんど一緒に生活していたのだ。普遍的なことに感じるのは当たり前だ。 「相変わらず冷たいね。たぶん初めて会った時からそっけないよ。」 初めて会った時から?そんなはずはないと思うが。 「まぁ、私も最近気が付いたんだけどね。いつも通りのことだったから気付かなかった。」 いつも通りのこと。まさに昨日までの日々だ。頭の中で彼女の「初めて会った時から」という言葉が、まるでやまびこのように繰り返される。俺が感じていた懐かしい感情はそういうことだったのか。つまり、俺は小2の時、同じクラスになった彼女を一目見た時からずっとこの気持ちに襲われていたのか。土の中に居たせいで、いつの間にかこの気持ちが霞んでしまっていたのだ。それを最近またこの気持ちに気が付いて、勝手に懐かしんでいただけだった。彼女から見たら俺も彼女を取り囲む土の一部だったということか。いや、いま彼女は「最近気が付いた」と言った。 「変かもしれないけど、私ずっと土の中にいた気分だったの。なんか普段の生活って土の中みたいじゃない?」 唐突に蝉の鳴き声が大きくなった気がした。そうか。彼女は抜け出したのか。この土の中から。 「そのことに気が付いてから、あなたの反応とか、私を探す癖とかがずっと気になってて・・・。実はあなただけは取り囲んでいた土とはちょっと違ったんだって思った。」 今まで自分だけが土の中に取り残された気でいたが、彼女も取り残されていたのか。俺も抜け出したい。抜け出せば、俺のことを日常とは違うと認識してくれた彼女のように、俺も彼女を日常とは切り離せるかもしれない。そうすれば俺の気持ちに気が付いた彼女のように自分の抱く気持ちの理由に気が付けるかもしれない。むしろ、すでに心のどこかでは気が付いているだろう。 「聞いてる?」 頭の中でどんどん大きくなっていた蝉の鳴き声がぴたりとやんだ。 「ごめんね変な話して。塾行こう。」 彼女ははにかんだようにくすりと笑い、立ち止まっていた俺を尻目に歩き出す。 そうだ。彼女の笑顔を見て思い出した。小4の夏休み、彼女にばったりあった夏祭り以降、彼女に冷たく接するようになったのだ。あの夜、屋台のうすら明かりに照らされた彼女のこのはにかんだ笑顔を向けられてから、自分でもそれに気がついてしまったからだった。全然最近なんかじゃない。土の中に埋もれて、いつの間にか忘れていた。小4の時はすでに、彼女に一目会った時から心にあったこの感情に気がついてしまっていたのだ。あの時は今よりも幼かった。この感情の意味を分かっていなかった。今ならわかる気がする。きっとこの感情は・・・。 「変じゃない。」 口からするりと言葉が出てきた。 「え?」 彼女が振り返る。 「俺は君が好きだ。」 心から漏れ出てしまった言葉。ドキドキが止まらない。顔が暑さとは違う理由で真っ赤になった彼女に、同じ理由で真っ赤になっているであろう自分の顔を見られまいと顔をそらすと、蝉がうるさく鳴いている木の幹には蝉の抜け殻が二つ付いていた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!