近江の乱の後始末

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翌日…松永弾正は降伏勧告の使者として観音寺城に向かった。 六角家は降伏勧告を受け入れ亀井家に降伏 観音寺城は武装を解除し開城された。 六角家に従う武家の者たちは亀井領の各地に替え地を与えられ現地への移動を命じられる。 六角家は解体され北近江南近江の地は全て亀井家の領地となった。 近江の地には國衡自身が入る。 同時に摂津の地は息子の國政に譲られたのであった。 亀井家の家督も譲るつもりであった國衡であったが、重臣たちの猛反対によって摂津のみの譲渡となった。 また松永家は六角家を説得した功労により、備前の地を与えられ転封が決まった。 松永弾正は内心でひやひやしていたので転封だが一国を賜る事だ出来喜んでいた。 河内和泉の三好領は亀井家の直轄地とし三好家には四国は全て与えられた。 四国の島津分家には替え地として大和の地が与えられ転封が決まった。 同じく四国の明智光秀は肥後の地へ転封、 肥後を治めていた伊勢國康は近江亀井家の家老として國衡の補佐をする事となった。 他にも隠居となり身軽になった武田信玄、今川義元も近江の地にやってきて國衡の補佐に… 岐阜の織田家は近江に集まった面々を知ると戦慄したのは言うまでもない…
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