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空回りを続けるバイクを連れて、俺が目指したのは道中見かけた公衆電話。気分をよくして随分家から離れた所まで来ていたから、迎えを呼ぼうと思ったんだ。
ひとつ、ふたつと坂を下ったところで電話ボックスの灯りが見えた。下り坂だったことも相まって、おれはその前まで軽やかに駆けた。結露した電話ボックスの中には何やら黒い影が蠢いていた。先客がいたようだ。
怪我を省みない動きをしたからだろうか。鎮まっていた痛みが蘇ってきた。ましてや、今在るのは冬の山。体力の消耗が激しく、なりふり構わず使用順を変わってもらう気すら起きなかった。
迎えを呼ぶ前に別のお迎えが来そうだ、などと冗談めいたことを口にして、冗談に聞こえないことに震える。思わぬディナーの登場に食前の祈りでも捧げているのだろうか、ほど遠くないところからカラスの鳴き声が聞こえてきて、更に震える。
暖房器具はないだろう、無機質な床や壁は氷のように冷えていよう、それでも、それでもせめて!電話ボックスの中へ、と。折れ戸を引いて目の当たりにしたのは、「がらんどう」だった。
結露したガラス越しに見た黒い影の姿はどこにもない。しかし、電話線を伸ばしきり垂れ下がる受話器から居なかったとも思えない。そも、電話ボックスにもたれかかるようにして、順番を待っていたおれに、音や振動すら感じさせずに出ることはできない。黒い影はおれが引き戸を開けるまで、ここにいたのだ。
電話中に戸を開けられたことに驚いて逃げたのか?いや、それなら逃げる姿を見ているはず。車はおろか、バイクや自転車すら電話ボックスの周辺にはなかったのにーーそうだ、なぜ乗り物がないのにここにいたのか。山を降りても人家はなく、人が乗るバスなども来ない。散歩やトレーニング感覚で寄る場所ではないのに……。
またも聞こえたカラスの鳴き声に、おれは、今置かれている状況を思い出した。他人のことを気にしている場合じゃない。受話器を取り、ダイヤルを回そうとした時だった。ーー正直な話、あの時ほど手袋をしていてよかったと思った時はない。受話器を握っている手の隙間から何やら落ちてきたのだ。
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