ある蕎麦屋で

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黒い。それは1度目の着地で大きくリバウンドし、2度目の着地で円運動を始めた。ようやく止まったかと思うと、節だらけの脚を伸ばし、おれに全容を見せた。虫だ、昆虫だ。いくら自然に富んだ山とはいえ、頃は冬。食物のない電話ボックスに虫がわくはずがない。そのようなことを考えている内にも、手の隙間からは黒が次々と。ようやく気味が悪くなり、投げつけるように受話器を手放すと、そこには腐臭のする赤黒い手形が遺されていた。 気がつくとおれは、車に乗せられていた。車内には嗅ぎ覚えのある臭いが充満している。男性用香水とタバコの臭いが混ざった堪え難い悪臭だ。その発生源かつ運転手こそがおれの兄キだった。 兄キはせっかくの新車を汚されたからか不機嫌そうだった。それに加えて、警察の検問にひっかかり、時間をとられたものだから、バックミラーを見て顔色を窺うことすら、おれはできないでいた。ただでさえ荒い運転が、より荒くなったら、度々すれちがうお巡りさんのお世話になってしまいそうだったから、刺激しないようにしていたともいえる。 ところが兄キは笑いを堪えていただけらしい。そのことがわかったのは家がほど近くなってからだった。どうも、電話口でのSOSがあまりにも女々しいので、普段とのギャップが凄まじかったようだ。自業自得とはいえ、死にかけていた身からすると面白くない。兄キによるおれのSOSのモノマネを、聞き流しながら玄関を開けると、居間から何やら話し声が聞こえる。一方的に語りかける声は抑揚に乏しく、ニュースキャスターのものであるとすぐにわかった。どうせ聞き流すなら、涼やかな女性の声だろう、と意識をそちらに向けると、彼女はこう告げた。 『本日未明、某県の山中にて女性の遺体が発見されました。遺体は死後、数週間から数ヶ月が経過しており、損傷が激しく、身元の特定ができずにいます』 おれは、聞かずにはいられなかった。兄キ、おれは電話口でなんて? ーー痛いよ、来てえ。 【公衆電話/了】
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