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恐怖の大王がドタキャンした翌日、この狭い町はある噂で持ちきりになった。
『帰らずの森から帰還した者が現れた!』
帰らずの森なんて大仰な名前がついているが、その実、近隣の小中学校の遠足地になっていたりと、遊歩道から逸れさえしなければ、まず迷わない地形。
迷うとすれば痴呆老人ぐらいなもので、町の男衆が山狩りまがいの捜索を行うと不思議そうな顔でひょっこりと出てくる。
少なくとも私ーー井伊あづさが生まれてから、帰還しなかった者は居ない。
では、どうして噂になったのか。疑問がわかなかったわけではないが、目先の仕事を終わらせなければ夕食にありつけない。靴の上に伏せって、遅くなったことへの不服をあらわにする愛犬、ポチと共に私は町へ繰り出した。
生温い風、明滅する水銀灯。終末論者好みの閑散とした町。そういえば、税金がまた高くなったと母がぼやいていた。以前よりも多く徴収されたお金はどこに向かうのだろう。
二日目の夜の日記帳のように、半端に舗装された道路を完成させてくれるのだろうか。
いや、どうせ町に食い込んでいる森の木々が邪魔だからと、先送りされてしまうに違いない。すれ違った子供が持っていた木の棒はまだ生きており、体重をかけて折ったのだろう、不細工な傷が残された木を見つけた。
一人間の私からすれば痛々しい傷だが、当の木はその素ぶりすら見せない。もちろん、私がその変化に気づけないだけかもしれないのだが、二等星の光をも取り込もうと、葉を傾ける姿には、新しい芽を出さんとする底なしの生命力を感じるのだ。
恐らくは、半ばで仕事を投げ出した自治体、業者もそれにやられたのだろう。むせ返るような土の臭いを巻き上げて、用を隠すポチのように、自分のためを思ってしたことが、他者ーーこの場合は森ーーを助けることもある。
いくら伐採しようとも、日当たりがよくなった、ありがとう、これからは私の時代だ、と。この凍らない土を持つ森が森たる緑は伸び上がる。まるで動き続ける迷路に放り込まれたかのような、そんな途方のなさである。
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