芳乃 加寿美

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 今年は三月下旬から急にあたたかくなって、桜の開花も例年より少し早くて、  ああ前撮り希望のお客様の予定に狂いが出るかしら、遅咲きの木をカメラマンに探しておいてもらわなきゃ、だとか、《情報》としての処理しかできておらず、  駐車場に車を停め、降りて、顔をあげた時、隣の一軒家の庭に咲いている一本きりの桜木があんまりなまめかしく白く、春夜にはるばる枝を伸ばし切っているのが目に入った瞬間、  心臓のあたりが濡れた霧でじっとりと湿らされたような気がして、  ほのぼのと薄ら紅い、どこか官能的な疲労感に脳の中がじゅくりと冒されて、  泣きたい気持ちとここちよい解放感に、ああもうだめかもしれない、と思いながら、もう一度車に乗り込んだ。  桜が咲いてる。  きれいに咲いてる。  わたしは春も、桜も、昔からとても大好きだった。  無意識のようにバッグを探り、感覚の弱い指先でスマートフォンの画面をたどった。  パスワードはあのひとの誕生日。……深い意味なんてない。打ち込む手に、ときめきもない。  苦くて後ろめたい気持ちを、利己的な防御反応のような感情で塗り潰す。  ……わたしは悪くない。ないことはないけれど。     
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