8章

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 伯母と二人、そそくさとその場を後にした。ただの思い込みだとはわかっているが、全員に敵意を向けられている気がしたのだ。  後日、やはり冬人が合格した旨の連絡があったが冬人は辞退した。伯母はしきりにもったいないと繰り返したが、もともとあまり興味のない世界だったので冬人は通常の生活に戻った。  それに、あの時泣きながら冬人のことを睨んできた少年の顏を思い出すと、胸に刺さったままの小さな棘がしつこく痛み出すのだ。冬人が辞退したあのオーディションは、その後ほかの合格者を出したのだろうか。考え出すとオーディションを受けに行ったこと自体を後悔してしまい、こんな思いをするくらいなら、口を噤んで静かに過ごした方がいいと思った。  こうして高校生でモデルにスカウトされるまで、冬人は自分を押さえて回りの反感を買うことを極力避けて生活していた。自分の望みを口にして、自分の欲しい物に手を伸ばして、その結果誰かに迷惑をかけたり誰かを傷つけるのが嫌だった。「もういらない」と手放したところで、もうそれを手にする以前の状況には戻れない。 (もし棗が俺の好意を迷惑だと思ったとしたら)  昨日の行為はただの苦痛でしかなかっただろう。どういう考えでこれまで冬人の行為を受け入れてくれたのかはわからないが、拒みきれずに悩んでいたり、先輩だからと遠慮していたのならば、申し訳ない気持ちと後悔でいっぱいになる。  けれど好きだった。我を忘れるほど、ひとのことが好きになった。たとえ棗が嫌だと泣いたとしても、自分の気持ちを押し通したくなるほど棗を自分のものにしてしまいたかった。 (世の中の両想いって奇跡なんだな)  その辺にあり触れて見えた恋人たちが急に神聖なものに見えてくる。好きになったひとに、同じように好いてもらえるなんて……なんて素晴らしく、なんて奇跡的なことなのだろう。  せっかく出会えたのに。せっかく見つけたと思ったのに。自分の愚かな行為で棗を失ってしまうかもしれないと考えると、冬人の中のもう一人の自分が「後悔」という名の槍で何度も胸を突いてくるのだった。
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