第1章

3/101
前へ
/101ページ
次へ
 逃げなくては。そう決意して足をがむしゃらに動かすと、ジャケットの布に爪が引っかかったり後ろ足の傷が擦れたりでこんがらがり、おかしな体勢で動けなくなってしまった。  にゃー……と細い声が情けなく漏れた時、初めて寿々の方に男性が目を向けた。  慎重に片腕で抱き直されて、頭の上にそっと手のひらが降りてくる。 「もう少しで着くから」  その声は存外穏やかで、寿々はきょとんとして大人しくなる。  安心させるように優しく首の後ろ当たりを撫でられながら、寿々は運ばれて行く。  寿々はその間、ずっと男性の顔から目が離せなかった。  しばらくすると、弓木動物病院と書かれた看板が掛けられた建物の前で男性が足を止めた。玄関の電気は点いておらず、もう診察時間外のようだ。  男性はスマートフォンを取り出すと、通話を始める。 「夜分遅くにすみません。先程ご連絡した塩見です……はい、玄関前に着きました」  男性の名前は塩見というらしい。スマートフォンをデニムのポケットにしまうと、先程と同じように寿々の首の後ろを撫で始める。  どうやら診察を取り付けてくれていたらしい塩見の親切さに感激しつつも、寿々は緊張で身を固くする。  今は猫の姿をしているし、ヘマをやらかさなければ何事もなく終わるはず。怪我で集中力は少し欠けているけれど……  そうこう考えているうちに、玄関がパッと明るくなり、内側からドアが開いた。  眼鏡を掛けて紺のスクラブを着た、細身の男性が顔を出す。この動物病院の獣医師のようだ。 「お待たせして申し訳ありません。どうぞ」  柔らかい声と笑顔で促されて、塩見は一つ頭を下げてから玄関をくぐる。 「もう時間外なのに、本当にすみません」 「いえいえ、丁度院内にいてよかったです」  申し訳なさそうに視線を落として歩く塩見に、何でもない事のように獣医師が首をゆるゆると振る。  誰もいない待合室を抜けて、診察室に着くと、寿々はジャケットごとそっと診察台に乗せられた。  片足を崩すようにぺたんと座った寿々は、明るい場所で改めてまじまじと塩見を見た。  歳は二十代半ばだろうか。相変わらず男らしく精悍だが、顔色が分かる明るさだと道中で感じたような無闇な迫力は多少薄れる。  そして、抱かれていた時はよく分からなかったが、しっかりとした体型で上背がかなりある。百八十センチ半ばかそれ以上というところだろうか。
/101ページ

最初のコメントを投稿しよう!

208人が本棚に入れています
本棚に追加