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アパートを引き払う日、真奈美は僕に、あの椅子の片方を渡そうとした。
「これに座るのは昇平だけだから、昇平が持ってて」
「座りに行くよ、僕が。
真奈美が持ってるほうが、椅子が喜ぶよ」
「……うん。絶対来てね」
「おう」
僕は二度と、あの椅子に座ることはなかった。
仕事なんてバイトの延長くらいに考えていた僕は、すぐに甘過ぎたとわかった。
自分で思っていたほど、僕は器用でも優秀でもなかった。
真奈美への電話さえ、日々の仕事に埋もれ、気がつけば何日もかけていない。
就職して初めてのイブ。
別れを最初に口にしたのは、真奈美だった。
遅くなった仕事の隙を縫って、トイレからこっそりかけた久しぶりの電話の向こうで、
真奈美は泣いた。
記念日好きの真奈美。
寂しがりで甘えたがりの真奈美。
あれから一度も会えない僕に、もう無理だと泣いた。
それからは何度か、お互いに何とか時間を作って、行き来した。
けれど、真奈美の寂しさを僕は埋められなかった。
会っていても、お互いにどこかで帰る時間を気にして、真奈美からは次第に笑顔が消えていった。
そしてその次のクリスマス。
真奈美は僕に告げた。
「プロポーズしてくれた人がいるの。
仕事も続けられるし、その人と結婚する」
僕達は、最初から一緒に居過ぎた。
手の届く距離に当たり前のように居る時間が、長過ぎた。
傍にいない、ということの重さに、あまりにも無頓着で、
そして僕はそれに気づくのが、遅過ぎた。
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