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「ヴィクトールさま。いい加減、戻りましょう」
一片も欠けることのない満月がぽっかりと中天に浮かぶ、そんな夜。
ぷかりぷかりと宙に浮く影に声が掛かった。
闇夜に浮かぶ月の銀糸を紡いだようなウェーブの掛かった長い髪が、風もないのにひらりひらりと舞い、月光を弾く。普段は燻るような灰蒼色の瞳が、己を呼んだ相手を見た。
「ん~、そうだね。でもまだ花嫁を探してないし……」
そう答えたヴィクトールと呼ばれた青年は、まるで重力を感じさせぬ所作で地面に降り立った。
その所作は優雅で、何も知らぬ者が目にすれば、思わず見惚れてしまうだろう。だがそれはなにも所作だけのせいではない。
軽くウェーブの掛かった、腰に掛かるほどに長い銀糸の髪に縁どられたかんばせは、一目見ただけで誰もが魅入られてしまう。
澄んだ深い湖のような蒼い瞳、すっと通った鼻筋、白磁のような白い肌は肌理が細かく、そこだけが紅を差したように紅い唇が蠱惑に弧を描く。
それが神の手によって絶妙なバランスで配置され、絶世の美貌を形作っていた。
「しかしヴィクトールさまはすでに、もう百人もの人間をご覧になられました」
「そうなんだけどね、珠希。私は、花嫁に関しては妥協する気はないんだ」
冷静な突っ込みに苦笑を浮かべ、肩を竦めるだけで全く言うことを聞くつもりはないらしい。
その言葉に黒髪を綺麗に結い上げた、二十代前半に見える女性の柳眉がピクリと跳ね上がった。
「しかしもう一か月も城を空けております。残してきた者たちがきっと心配しているはず」
「珠希の言うことも尤もだけど、自分の子供を宿す花嫁だよ? やはり吟味したいではないか」
はぁっと大きく息を吐いて、反論した時だった。その香りに気付いたのは……。
甘く芳醇な香りがささやかな夜風に乗り、鼻腔を擽る。それは粉うことなき極上品の香りだった。
「ヴィクトールさま!?」
それに釣られるようにふわりと浮き上がると、珠希が驚いたように声を上げる。しかしそれに軽く手を振って、風を辿ってその香りの元に急いだ。
辿り着いたその先には、一人の女が倒れ伏していた。頼りない月光が照らすその美しい顔には、もう生気は宿っていない。流れ出る深紅の液体の中、すでに命の焔は燃え尽きようとしていた。
「どうした?」
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