43人が本棚に入れています
本棚に追加
俺は久しぶりにぶん殴られて、その勢いで後ろに引っ繰り返った。彼は怒った顔をしてなかった。
「大丈夫か」
自分が殴っておいて、彼は俺を引き起こしながらそう聞いた。
「少しは目が覚めたか? なあ。あんたの気持ちも分かるけどさ。おっさんはもっと客を大事にしてたよ。事情知らないで来る客もいんだろ? あんた、おっさん死んでから何人客逃がした? 気づいてないのか? もっとしゃんとしろよ」
言われて俺の中に叔父の顔が浮かんだ。そうだ。よく笑ってた。何があっても気持ちよく人に接してた。叔母が亡くなった時もそうだった。
『お客さんには関係ないからな』
あの時の叔父の言葉を思い出した。フロントの下の棚には、いつも叔母の写真があった。
そして、俺は初めて目の前の男の顔をちゃんと見た。
――ぞくり
そう、ぞくりとしたんだ、その目に。口元に。その笑みに。
いったん捉えられたらもう逃げられない。やっと引き千切るように目を離しても、追いかけてくる視線にまた捕まった。
再び彼を見た時。俺はただ息を呑んでいた。なんてきれいなんだろう! どこもかしこも完ぺきだった。唯一それを壊すのは、時に口元に浮かぶ自嘲めいた笑みだと後で知った。
「やっと俺を見たな」
確かに。彼から無理やり目を引き剥がして周りを見た。フロントはきれいに磨かれていて、床も塵一つ無い。
「きれいだ……」
ぽつんと俺は呟いた。
「おっさん、良くしてくれたからな。コーヒーのお礼さ」
目の前の恐ろしくきれいな男をもう一度見た。
「あんたが……あんたがここの面倒を見ててくれたのか?」
男はにやりと笑った。俺はまた ぞくり とした。
「いい男だろ? 俺って」
俺は思わず笑った。
「笑えるじゃねぇか! いい笑顔だぜ。おっさんみたいにな。あんた、可愛い顔してんだ。笑わないと勿体ないぜ」
うん。久しぶりに笑ったよ。叔父が亡くなってから初めてだ。そう思って、カレンダーを見た。驚いたことに、2週間が経っていた。
「おっさんは働きもんだったぜ。なあ、どうすんだ? 見たとこ、あんたは学生さんだよな。ここ、閉めちまうのか?」
最初のコメントを投稿しよう!