クラリネットと口紅

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 タクトと先生は静かに話していて、内容は全然聞き取れなかったわ。穏やかにタクトは口元を押さえて笑う仕草をして、先生もまったく同じ動作で微笑んでいた。それからふいに先生が立ち上がって、引き出しから何かを取り出したの。小さなスティックで、先生がキャップを外して、少しひねると真っ赤な口紅が出てきたの。そこからすべてがスローモーションに見えたわ。  先生は椅子に座っているタクトの真正面で、少し身を屈めたの。空いている左手でタクトの顎を軽く上向きに押さえて、先生は口紅でタクトの下唇をそっとなぞったわ。タクトは目を閉じていて、口紅が唇に触れるたびに長いまつげが微かに震えていて。タクトの赤い唇が自然な艶やかさを失って、毒のような赤に塗り潰されていったの。口紅をしまった先生は両手でタクトの頬に触れて何かを口にすると、タクトは目を開けて答えていたわ。  それから彼女は手を離して、ゆっくりと部屋の中を歩き回りながらタン、タン、と今までの話し声よりも大きな声でメロディーを唱えたの。自分の中に眠る世界から音楽を探り当てるようにタン、タン、って。その旋律はお披露目講演であたしが担当するクラリネットパートのものだった。それに合わせて、タクトは椅子から立ち上がって指で指揮をはじめたの。夜明けの楽団の練習の時はいつも指揮棒を使っていたのに。  タクトの指の動きはしなやかで、淀みがなくて。先生の声はどんなに高い音も、どんなに低い音も掠れることなく伸びやかに響いていたわ。タクトの指は蝶が花を求めて飛んでいるようにも、風で木の葉が揺れているようにも見えた。時折、燭台の炎の揺らめきが混じって、タクトの影がタクトとは別の動きをしているようにも感じて。あたしは自分が持っていたクラリネットケースを取り落としそうになって、慌てて抱えなおしたわ。だって、あたしがこれから演奏するはずの旋律が、タクトと一緒に演奏するはずの旋律が、彼女の歌声を越えられるような気がまったくしなかったんだもの。それは悔しさや諦めじゃなくて、悟りだったと思う。だから、あたしはタクトと彼女の演奏に見惚れるしかなかったの。タクトの口紅を塗られた唇は引き結ばれていて、その赤さは演奏が進むにつれてさらに真紅に近づいているようだった。
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