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「これ、落としたの君かな?」
タクトは赤い林檎の時計を手のひらにのせてたの。それは確かにあたしの時計だったんだけれど、なんだかタクトの手に収まっていることの方が正しく見えて、すぐに返事ができなかった。でも、なくしたらいけないものだったから頷いたの。
「ありがとう。タクトは、これから帰るの?」
「いや、今は休憩してたところ。あと少ししたら戻るよ」
「そっか、タクトの先生ってこの裏道の家だっけ。指揮者って、どんな練習するの?」
「うーん。楽譜を読み込んだり、書き写したり、とにかく譜面で体の中を満たす、みたいな感じかな」
「譜面を徹底的に覚えるってこと?」
「言葉にするとそうなんだけれど、でも覚える、はちょっと遠いかなぁ。なんだろう、指を切ったら傷口から音符が漏れだしてくるような感じかな」
「傷口から音楽が流れたらすごいね」
「でもちょっと怖いね、それ」
「自分で言ったのに」
あたしが笑うと、タクトも口元を押さえてふき出したわ。
「いつか、僕の中身が全部音楽に変わったとき、君と演奏してみたいな」
「それってスカウト?」
尋ねると、タクトは右手を差し出して、
「そうだね、スカウト」
って言ったの。あたしは両手でタクトの華奢な手を掴んでから、
「けいやく!」
なんて子供っぽく小指を絡めて笑ったわ。それを言うなら約束だったんじゃないかしらって、今では思うんだけれど。
それから、あたしが音楽村の便利屋さんをして三年目の秋に、ようやく新しいクラリネットが手に入ったの。楽器職人のおじさんが、壊してしまったクラリネットのキィを溶かして、新しいクラリネットのキィの中に混ぜてくれたのよ。そのせいか初めて手に持ったときにも妙に懐かしい気持ちになって。大人が使っているものと同じクラリネットだったから、まだあたしには少し重かったけれど。それでも初めて息を吹き込んだ瞬間、これからずっと奏で続ける音色がこれなんだって思えたの。大切にする、っていう言葉の意味を思い知ったからこそ、これから大切にできるものに手が届いたんじゃないかしら。
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