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背筋が冷えた。
なんで私はこの家を出なきゃいけないの…?
私は悪い事なんて何もしてないでしょう?
そろそろ潮時じゃないのかしら。実家に帰った方が親御さんのためよ。確か宮崎よねぇ。あなたみたいな人が東京(こっち)にいつまでもいるから、過疎とか少子化とか、面倒なことが起こるんじゃないの。
…そんなことを他人に言われる筋合いなんてない!
私は積もっていく叫びを、かろうじて心に留めた。しかし、長年住み慣れた家もなくなってしまったので、ずかずかと借り主のプライベートに踏み込んでくる大家の言葉に従うほかなく、実家に帰ることにした。
約10年ぶりのあばら家は、私に手招きもせず、ただ佇んでいるだけだった。瓦の色が所々違うためか、馴染んだ純日本家屋がみすぼらしく見える。
ああ、家も老けた。
私は、老けた家の扉をそっと開いた。
「荷物、部屋に上げんない」(荷物、部屋に上げなさい)
私の忍び足に反撃するように、奥から母の声がする。私はキャリーバッグをごろごろと引いて、一階の私の部屋に置いた。芳醇でスパイシーなカレーの匂いが漂ってくる。
母は、服についたとろみのある茶色を指でなめ取りながら、奥の台所から出てきた。
やはりカレーか。
「ちょっとー、家ん中でキャリーバッグ転がしたっちゃろ、砂ん落ちるかい‥」
子供を卒業して何年だと思ってますか私を。
それでも、こんな時に付き物だった、眉を吊り上げた顔は影も形もない。そんなことぐらい分かっているよ、と言いたい、母の思いを私に知らせる。
「あとで掃除機がーっとやれば?」
…いやカレー。と頭の中で連呼する私を、母は通常運転で置いてきぼりにする。
「あんた、こっちの空気吸っちょんのに全然訛らんね。どうしたと」
「どうもしないから」カレーをください。
「さびしいわぁ」
母は、さもありげに呟いて、昔そうしたように、指をぽきぽきと鳴らした。
「手、洗ってくる」
私が洗面所に向かうと、
「そういえば、カレーできちょったわぁ、食べんない」と、手を叩く音とともに、やっと母の暢気な声が飛んできた。
「匂いで分かるよ」
それだけ言って、手をタオルで拭き、ダイニングの昔の定位置に座る。が、カレーの入ったスープ皿しか食卓にはない。
「おかーさん、スプーンとかは」
そういえばないねぇ、と母は食器棚にスプーンを探す。
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