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春、二人で公園に出かけた。花見がしたいと妻が言い、妻の望みをなんでも叶えたかった彼は遠近問わず名所を調べてリストアップしたのだが妻はそれを一瞥して
「そういうことじゃない」
と笑った。
「あなたは真面目すぎる」
妻からそう言われるのが彼は好きだった。アパートからてくてく歩いて公園へ言った。道すがら、妻はたんぽぽが咲いていることや犬が鳴いていること、青い空の中の雲の形が朱雀に似ていることなどと夫に話した。他にもっと離さなければならないこと、入院の手続きや医療保険、彼女の退職やそれに伴って彼が負担するべき仕事のことなどのいっさいはその時の二人の間から消えていて、ただの若い夫婦のように寄り添って歩いた。実際、この世界で二人はただの若い夫婦だった。公園にはそうでない人がたくさんいた。ボールを蹴り合う家族連れや犬を連れてベンチに座った老人、明らかに恋人同士だと分かるカップル(なぜなら二人ともが底抜けに明るくはしゃぎきっていたから)。妻はそんな人々に交じって並木道の下を歩き、徐に立ち止まってスマートフォンを取り出して写真を撮って、またゆっくりと歩き出す。彼は妻に置いて行かれないよう注意深く歩幅を合わせ、タイミングを計ってついて行った。みずみずしい空の下で、柔らかな日差しとは裏腹に巻き上がる風が冷たく彼は妻がショール一枚で来たことを心配した。
「見て」
妻に促されて顔を上げると無数の花びらが二人に降り注いだ。蝶の羽を撫でるような手つきで妻は空に細い腕を差し出し、そのいくつかを掴み取ろうとした。舞い上がった燐粉を追って見上げた空が眩しく涙がにじんだ。あまりに強い風にあおられて蝶は生き急ぎひっきりなしに羽ばたいてその羽を引きちぎるように幾片ものかけらを零らせているのだった。
「花吹雪なんて夢物語だと思ってた」
と妻は言った。
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