彼の真実、僕の現実

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彼の真実、僕の現実

 それは、あのバーで彼と話をしていたときのことだった。  僕と彼は――どういう流れでその話題になったのかは憶えていないが――社会の成り立ちについて、真剣に議論していた。  僕はいつも世間に対して諦観を持っていたが、彼は希望を捨てていなかった。  彼は、一人ひとりが向上心を持てば、世界はもっとよくなっていけると信じていた。  僕はそれを無駄だと切り捨てて、現代のようにインターネットでいくら世界が繋がっても戦争はなくならないじゃないかと言った。  その時、彼はあのセリフを言ったのだ。  僕はそれを詭弁だと一蹴したが、そうではなかった。  その彼の言葉すらも、フィルターを通した未完成な表現に過ぎなかったのだ……。  いつの間にかオルゴールの演奏は終わっていた。  僕はゆっくりと立ち上がって、地面に落ちたオルゴールを拾った。  そして僕は自分のすべての感覚が鋭敏になっていることに気がついた。  廃墟に漂う埃っぽい空気も、ところどころで建物が軋む音も、そして飛び回る虫の気配すらも、ソリッドなイメージとして僕の中に入り込んできた。  僕の世界を覆っていたもやが綺麗に取り払われた。  もう肌にまとわりつくような人の気配は感じなかった。  東京に戻らなくてはならない……僕はそう思った。  僕は完全な不完全さを受け入れ、彼は不完全な完全さに向かって身を焼いた。  それを理解したことで、僕と彼の間の距離は少しだけ縮まった。
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