第1章

31/95
前へ
/95ページ
次へ
そう言おうとしたら、男の人は悪いことを考えてそうなほほ笑みを浮かべ、ぼくにこういった。 「アレクって呼んでくれたら、どいてやる」 不意打ち気味にちゅっと唇にキスされた。 「なっ……なっ」 目を限界まで見開いて、顔は極限まで赤くなった。男女でもないのに、公衆の面前で、キスされた。 「なあに。珍しいことじゃねえよ」 この人、ぼくの考えることがわかる魔法でも使ってるんだろうか。 「はやく」 まるで歌でも歌うかのように囁かれて、ますます顔が赤くなる。 ぼくは両手で顔を覆いながら、小さな声で言った。 「……あ、アレク、さん……ど、どいてください」 アレクは俯いたぼくの髪の毛をくしゃくしゃに撫でて、ソファから離れた。膝の上にぽとりとカバンが落とされる。 「残念。気をつけていけよ」 ぼくはむんずとバッグを掴むと、脱兎のごとく駆け出した。ドアマンが開ける前に、自分で扉を押しのけ、ホテルが見えなくなるまで全速力で走り去った。 まったくもう! とんでもないやつだった! 多分アルファだろうが、さすがアルファって感じだ。人を人だと思っていない。なんだあの、人をからかうことに全力を尽くした言動と、態度は! ぼくをバカにしてんのか。くそッ! ぼくは思いつく限りの口汚い言葉を呟きながら、ステーキハウスの扉を開けた。 「マスターおはようっ!」 いささか乱暴に扉を閉め、両手を組んでふんっ! と息を吐き出した。すでに朝の掃除を始めていたらしいマスターは、ぼくの憤る姿を見て苦笑いを浮かべる。 「おーおー、うちの姫様の機嫌が悪いぞ」 「姫じゃないッ!」 のしのしと大股でフロアを通り過ぎ、スタッフスペースの扉を開ける。がちゃりと開けるのは自分のロッカーだ。幸いなことに何枚か替えのシャツは用意してある。問題は替えのないエプロンだ。皺だらけで、正直客の前には出れない。 「マスター! アイロン貸してッ!」 「棚の上」 ぼくはぷりぷり怒り狂いながら、クローゼットに取り付けられたアイロン台を引っ張り出し、アイロンをコンセントにぶっ刺した。脱いだしわくちゃギャルソンエプロンをバサリと広げ、アイロンを押し当てる。ついでにズボンもアイロンをかけよう。どれもこれもくっちゃくちゃだ。 「朝飯食ったら機嫌直るか?」 「食べる!! クラブサンドがいい!」
/95ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1593人が本棚に入れています
本棚に追加