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そう言おうとしたら、男の人は悪いことを考えてそうなほほ笑みを浮かべ、ぼくにこういった。
「アレクって呼んでくれたら、どいてやる」
不意打ち気味にちゅっと唇にキスされた。
「なっ……なっ」
目を限界まで見開いて、顔は極限まで赤くなった。男女でもないのに、公衆の面前で、キスされた。
「なあに。珍しいことじゃねえよ」
この人、ぼくの考えることがわかる魔法でも使ってるんだろうか。
「はやく」
まるで歌でも歌うかのように囁かれて、ますます顔が赤くなる。
ぼくは両手で顔を覆いながら、小さな声で言った。
「……あ、アレク、さん……ど、どいてください」
アレクは俯いたぼくの髪の毛をくしゃくしゃに撫でて、ソファから離れた。膝の上にぽとりとカバンが落とされる。
「残念。気をつけていけよ」
ぼくはむんずとバッグを掴むと、脱兎のごとく駆け出した。ドアマンが開ける前に、自分で扉を押しのけ、ホテルが見えなくなるまで全速力で走り去った。
まったくもう! とんでもないやつだった! 多分アルファだろうが、さすがアルファって感じだ。人を人だと思っていない。なんだあの、人をからかうことに全力を尽くした言動と、態度は! ぼくをバカにしてんのか。くそッ!
ぼくは思いつく限りの口汚い言葉を呟きながら、ステーキハウスの扉を開けた。
「マスターおはようっ!」
いささか乱暴に扉を閉め、両手を組んでふんっ! と息を吐き出した。すでに朝の掃除を始めていたらしいマスターは、ぼくの憤る姿を見て苦笑いを浮かべる。
「おーおー、うちの姫様の機嫌が悪いぞ」
「姫じゃないッ!」
のしのしと大股でフロアを通り過ぎ、スタッフスペースの扉を開ける。がちゃりと開けるのは自分のロッカーだ。幸いなことに何枚か替えのシャツは用意してある。問題は替えのないエプロンだ。皺だらけで、正直客の前には出れない。
「マスター! アイロン貸してッ!」
「棚の上」
ぼくはぷりぷり怒り狂いながら、クローゼットに取り付けられたアイロン台を引っ張り出し、アイロンをコンセントにぶっ刺した。脱いだしわくちゃギャルソンエプロンをバサリと広げ、アイロンを押し当てる。ついでにズボンもアイロンをかけよう。どれもこれもくっちゃくちゃだ。
「朝飯食ったら機嫌直るか?」
「食べる!! クラブサンドがいい!」
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