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「じゃ、帰るよ」
先生は言って氷月の頭にそっと手を置き、彼女はなにか熱いものでも触れたようにぴくりとふるえた。
とたんに、高い位置にある先生のくびに半ばぶらさがるようにしてしがみつく彼女の表情を僕だけが見ていた。
泣いてはいなかった。
怒っているみたいで、だだをこねる子どもみたいに必死な顔をしていた。
先生はちょっとの間面食らって戸惑っていたけれど、氷月のつめたい身体を怖々抱き、そうしてぽんぽんとやわらかく頭を撫でた。
氷月はどんどん傷ついていくように、あるいは傷つきたいがためにか、ますますぎゅうぎゅうと腕に力を込めてはりついた。
唐突に、まるで誰かがぱんっと手を叩いたみたいに氷月は離れた。
と思うと、素早くキスした。
うれしそうに笑って先生の眼鏡をはずすと、もう一度キスした。
「泣いてると思ったでしょう」
こらえきれないようにまた笑う。肩をふるわせて。泣いているみたいに。
先生はやれやれと苦笑し、なしくずし的に空気は和らいだ。
氷月の顔もいつのまにかそこらへんの女子大生みたいに無邪気に影なく見えた。
ふたりはそのまま床に座り込んで、いつまでも互いの存在を留めるように何度もキスを続け、僕はいいかげんばからしくなってそっぽを向いた。
雨の雫を含んで佇む街はすっかり鈍色に沈んでいる。
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