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「嘘よ」と言って、彼女はくすくす笑い、「でも、とにかく、何をしていいのか全然わからなくて。ただぼんやりしてたら、四十九日なんてあっというまで」 先生はほっと肩をおろし、また床を拭きはじめた。 そうしてまた、なんとも言えず居心地のわるい間ができる。言葉を選びに選んで、結局何も話せずにいるみたい。 氷月はこの研究室に訪れる他の女子学生たちとは少し違っていた。彼女たちの纏うやわらかく可愛らしい空気の膜がない。 むきだしの彼女は、大人びた横顔とひとりを怖れないつよさで、先生や書棚や机や僕やすべてを見つめる。どこかはりつめた感じで、物事を、何もかもを別世界のようにとらえている瞳だった。 「本当に…突然のことで大変だったろう。何か私にできることがあれば…」 先生はやっとの思いで喉にはりついていた言葉をひっぱりだしたのに、むなしく黙殺されている。 まるで先生の言葉など届かぬように、所在無げに部屋を歩きまわっていた氷月は、ふと僕に目を止めると、濃い瞳でじっと見つめた。 ありもしない僕の心臓が音をたてる。 瞳の底の底に、死が、ちろちろ見えた気がした。
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