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昔ながらの木製の窓枠に嵌った、薄く透明ではあるが歪みのあるガラスに叩きつけるように雨が降り続いている。
外は昼間だというのに薄暗く、気分まで憂鬱にさせる。
暖かみのあるオレンジ色の照明を基調とした板張りの店内には、心を和ませるBGMもなく、香ばしいコーヒーの香りと湯が沸く蒸気の音だけが、数人しかいない客の心地よさを演出していた。
ここは、純喫茶“砂時計”。
駅前の喧噪を離れ、住宅街の隅にひっそりと佇んでいる古い喫茶店だ。
目立った看板もなければ、ホームページなどというものも作ってはいない。
ここが出来た当時の白木の外壁の面影は今はなく、すっかり黒く変色した板が、その年数を表すかのようになんとも言えない木目を浮き立たせている。
この店に来る客は日に数人。多い時でも十人くらいだろうか。
そのほとんどが近所の住人で、ほぼ常連ばかりだ。時折、一見で飛び込む客もいるが、身の置き場のない雰囲気にそそくさと店を出て行く者がほとんどだ。
店のマスターである僕――上郷乙希は、あまり人と接することを得意としていない。
じゃあ、なぜ客商売である喫茶店などをやっているのか?と問われれば、今は亡き母親が残していった大切なものだからだ。
僕が幼い頃に父親と離婚した母は、念願の喫茶店をオープンさせた。当時は借金に追われ、無我夢中で働いていた姿を今でも覚えている。そんな彼女ではあったが、気さくで、ここに来る常連には決して弱った顔を見せることはなかった。入口のドアが開くたびに、いつも笑顔で「いらっしゃいませ」と澄んだ声を響かせていた。
母は僕の理想であり、憧れの女性だった。
そんな母が病に倒れ、亡くなったのは僕が十六歳の時だった。まだ高校生だった僕を最後まで心配して逝った母の遺志を継ぐように、この店を継いだ。
高校、大学と学業の傍らで、友人たちがバイトやコンパに明け暮れている最中でも、僕はこの店を守り続けてきたのだ。
そして――僕はもう一つ、母から大切な物を継いだ。それは不思議な力だった。
喫茶店経営をしながら、母は時々、この店に訪れる人の相談事を聞いていた。その時は店を閉め、僕にも店に入って来ないようにときつく言い渡し、店と住居を繋ぐ階段の入り口のドアには鍵がかけられた。
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