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そうなると数時間、母は二階に上がってくることはなかった。しかし、そのドアの鍵が解錠された時の客の表情は、明るく、清々しささえ感じるものへと変わっていたのを覚えている。 その人を店先で見送ると、決まって母はこう言った。 「誰でも苦しい思い出はあるものなのよ」――と。  まだ幼かった僕には理解出来ない言葉だったが、二十七歳になった今、その言葉の意味が分かるようになっていた。  母が残してくれた不思議な力――そう、僕は他人の記憶を消すことが出来るのだ。  ただ闇雲に全部の記憶を消してしまうのではなく、その人が忘れたいと願う記憶だけを消す。  嫌な思い出や、失恋した相手の事、はたまた憎かった両親や兄弟の事。過去に縛られたまま生きている人たちを救う出助けをしていた母の持っていた不思議な力を受け継いだ僕もまた“忘れさせ屋”になっていた。  しかし、この仕事は常に行っているわけではなく、もちろん店内のどこにもそんな記述はない。  ただ、口コミでじわりと広がり、知る人ぞ知る喫茶店として、一部の人たちには知られている。  完全予約制で、その相談者の状況や記憶量などによって、開店時間を短縮したり、はたまた臨時休業にする場合もある。常連であれば皆が知っていることで、事前に予約が入れば店にいる客にもその旨を伝えるようにしている。  ただ……。この力は僕自身にかなりの疲労と精神力、そして他人の記憶を預かるという重大な守秘義務が課せられるため、一件の相談事が終わったあとは大抵二日は寝込むようになってしまう。  それを考慮して、あまりにも無謀なことや、近親者、犯罪に関与した記憶などの案件は一切断るようにしている。  一度だけ、犯罪に関与した男の記憶を扱ったことがあったが、警察が連日訪れて事情聴取を繰り返され、喫茶店の営業もさることながら、その時の僕は大学の卒論に追われていた時期でもあったため、大変な目に遭った。  これを教訓に、相談者の選定にはかなり慎重になった。短時間ではあるが何度も面接を繰り返し、その人の生活環境や仕事、交友関係を厳密に精査した上で、やっと本題にこぎつける。
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