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気の短い依頼者などは、この時点で「もう、いい!」と断りを入れてくる者もいるが、そういう人に限って大した内容ではないものがほとんどだ。本当に自分の持つ記憶に苦しめられている人であれば、藁にも縋る思いで僕を訪ねてくる。
しかし、記憶を操ることが出来る僕にも出来ないことはある。それは、自分の記憶を消すこと。
相談者が話した内容も消すことが出来ないため、僕の頭の中には膨大な量の他人の記憶が保存されていることになる。そんな状況で、これから先もこの仕事を続けるとなると、僕の脳みその許容量はあっという間にいっぱいになり、自分の事もままならないほどの記憶障害を起こす危険性がある。だから、なるべく相談者の記憶は忘れようと努力するのだが、自分が体験した記憶だけは絶対に忘れることも出来ない。
僕だって、忘れたい過去はいくつもある。それによって苦しんでいるのは事実だ。
正直なところ、他人の心配などしていられる状況ではないことは確かだった。母はもちろん、この店の思い出や学校で学んだことは忘れたいとも思わない。だけど、もし僕のほかに僕と同じ力を持った人が存在するならば、この頭の中にある“あの人”の記憶を消して欲しいと願うだろう。
仲谷汐里――僕の恋人だった人。
汐里なんて女性のような名前ではあるが、彼は列記とした男で、僕と同じ男性しか愛せないセクシャリティを持った人だった。
出会いはひどく曖昧で、気が付いたらこの店の二階にある僕の家に住み着き、寝食を共にしていた。
三つ年上で、男としては身長が低い僕とは違い、一八〇センチはあったと思う。柔らかな栗色の髪と端正な顔立ちが印象的な彼とは、何度もキスもしたし、もちろんセ|ックスもした。お互いになくてはならない存在だと思い始めていた矢先に彼は失踪し、その一年後に自殺した。
彼の姉だという綺麗な女性が店に現れて、そう告げられた時、僕は目を開けていながら意識を失っていたに違いない。でも、その時の記憶は今でもはっきりと覚えていて、その日も今日みたいな雨が降っていた。
薄暗い空、冷たい雨。その滴が窓ガラスを叩く音が今でも耳に残って離れない。
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