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でも今になってはその真意は闇の中だ。
彼は何も言わずにこの世を去ったのだから……。
必然的に僕は彼に捨てられたも同然で、それから恋人を作る気にもなれずにいた。
汐里は僕に、例えようのない悲しみと苦しみ、そして忘れたくても忘れられない愛情と思い出を残していった。
誰かを好きになることの楽しさ、嬉しさ、喜び、その反面の痛みや苦しみ、恐怖を確実に僕に植え付けて、一人で勝手に命を絶った。
なんて身勝手な男だ。“忘れさせ屋”でも出来ない事を知っていたはずなのに……。
フィルターに注いだ湯気から逃げるように、わずかに視線を上げる。
まだ雨は降っていて、先程よりも雨脚が強い。窓に叩きつける音が次第に大きくなっていることに気付く。
「――雨、心配ですね」
誰に言うでもなく、店内にいる二人の常連に声をかける。
彼らは、突然発せられた僕の声に驚きつつも、一回だけ大きく頷いて手元の本に視線を戻した。
コーヒーの良し悪しが決まる湯を注ぐ時に、こうやって誰かに話しかけることは珍しい。それを知っているからこそ彼らは声を出すことなく、それでも気を遣って応えてくれたのだろう。
コーヒーの香りと、ガラスを叩く雨の音に汐里のことを思い出して、少々感傷的な気分になってしまった結果だ。感情がそのまま味に繋がってしまうコーヒーは、その時々の僕の心を反映させる。
このコーヒーは店には出せないな……と反省しつつ、僕は小さく息を吐いた。
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