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今日は午後から店を閉めていた。 僕のもう一つの仕事である"忘れさせ屋"の客が来る予定になっている。店の常連さんたちにはあらかじめ伝えておいたから安心だ。 皆、付き合いも長く、先代の母の頃からのことなので、その点では理解もある。 「――じゃあ、明日はお休みだね?また明後日に顔だすよ」  中にはそう言って気を遣ってくれる人もいる。  他人の記憶を消すという作業にどれ程の集中力と精神力が必要で、それに伴って翌日は決まってベッドから起き上がれなくなることまで分かってくれる。  店主である僕が動けないということは、バイトもいないこの店は必然的に臨時休業となるのだ。  そんなことにも腹をたてることなく、近所の常連さんが何かと僕のことを気にかけてくれるのは、母の人徳があってのことだと、今更ながら母に感謝している。  カウンターの掃除を終え、仕事場となる店の中でも一番奥まった席に、白いハンカチを敷き、母から譲り受けた砂時計を置いた。  今日、訪れるのは三十二歳の女性だ。大手メーカーの営業部に所属し、女だてらにかなりのやり手のようだ。  彼女が忘れたい記憶――それは以前付き合っていた男性の事だった。彼には妻子がおり、彼女とはいわゆる不倫関係だったようだ。男性の妻に知られることなく、順調に付き合っていたある日、彼の妻が自殺をはかり、意識不明のまま、今も病院で眠ったままの状態が続いている。自殺の原因は明らかにはなっていないが、彼は自分のせいだと己を責める日々が続き、その傍らで育児と仕事に終われた。もちろん、彼女との別れ話も出たが、彼女は納得することが出来ずに、半ばストーカー同然に彼に付きまとい、復縁を迫った。  しかし、彼の心の中にあったのは妻だけだった。もう、彼は自分の元には戻ってこないと理解し始めた頃、彼は亡くなった。  急性心筋梗塞を発病し、何の前触れもない突然死だった。  その証拠に、彼はまだ小学生の子供とファミリーレストランで親子水入らずで食事中だったのだ。  仕事中や、なんらかの激しい運動をしている最中ならばそれが原因だと言える。しかし、彼は子供と笑い合い、幸せな時間を過ごしていた最中だった。  彼女は、自分を責めた。
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