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人間が生きていく上で、記憶がなければ成長もしないし、感情も持てない。それをいくら依頼されたからと言って強制的に消し去るなんて所業は、本当は神への冒涜なんじゃないかって思ってる。
事故やアクシデントに見舞われ、失いたくもない記憶を失い、取り戻せない人もいる。
それなのに僕は、自然の摂理に反しているような気がしてならないのだ。
それを口にする度に母は力なく笑いながら言った。
「人が生きていく上で、あったら前に進めない記憶だってある。私たちは決して神様の領域を侵しているんじゃない。そんな人たちの未来を繋いでいってあげてるのよ」
記憶を消す最終段階で使用する母の形見である砂時計をそっと持ち上げてみる。
細かい白い砂が全部落ちきったとき、その人の記憶は消える。
儚いものと思うべきか、希望の道しるべと思うべきか……。
その瞬間、僕はいつも汐里のことを想ってしまう。
もし、自分が持つ彼の記憶を消すことが出来たら、僕は自由になれるのだろうか……と。
優しく、時に子供のように無邪気に笑う顔や、長く細い指先、飽きるほど抱き合った肌の感触と薄い唇の温度。
そして繋がった場所のわずかな痛みと体を焼き尽くすほどの灼熱。
すべて彼が教えてくれた。
砂時計をテーブルに戻し、俯いたまま何度か深呼吸を繰り返す。
快感を呼ぶ体が震え始めている。
それを落ち着かせるには、しばらくの間こうしているしかない。
細く息を吐き出して、視界を遮る前髪をかきあげる。
(僕の弱さ……だ)
どんなに過酷な他人の過去を聞いても動じる事はない。しかし、自分の記憶に関してだけは融通が利かないのが難点だ。
「これじゃぁ、力が乱れちゃうな……」
勢いよく顔を上げてカウンターの中に入り、冷蔵庫を開けて、あらかじめ冷やしておいたアイスコーヒーのボトルを取り出すと、氷を入れたグラスになみなみと注ぎ入れ、それを一気に煽った。
キリッとした苦味と、あとに広がる酸味にくっと顔をしかめる。
「こんな味だっけ?」
店を閉める前にドリップした時と味が違っていた。
この豆はアイスにしても風味が変わらないはずなのに、今は全く違ったものに感じられる。
やはり、母が言っていた通り、淹れる者も飲む者も、コーヒーの味覚は感情に左右されるというのはまんざら嘘ではないようだ。
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