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SCHEME 2 第7章
「長く同じ地に居ついても分からないものですね。自分の勤務先の近くに、こんな隠れ家があったとは。全く気が付きませんでした」
糸川誠一は緊張しているのか、掘り炬燵に足も下ろさずに正座し、お茶を少し啜っては茶卓に戻し、口元をハンカチで拭いては、また少し啜って、と繰り返していた。
宗岡の別荘に忍び込む際に、糸川を脅して手引きさせ、その後諒からは大したフォローもしていない。そんな人間と個室に二人きりなのだから、相手が委縮してしまうのも致し方ない。
どれほど効果があるか分からないが、諒はとりあえず頬に温厚さを滲ませ、
「お忙しいのにお昼時にお呼びたていたしまして、失礼いたしました。せめて束の間の梅雨晴れになりまして、よかったです」
と、雨後の晴色よりも爽やかに眼差してみた。
一瞬、虚を衝かれたようだった糸川だったが、はっとして「いえいえ、事件解決のお役に立てるなら」と返答した。昼間に会う糸川は、社長秘書の肩書き通り理知的で紳士的な出で立ちで、出会いの場面を思い出すと別人物のような印象だった。
諒の方も品の良いビジネススーツに、ブルーのネクタイを合わせ、いかにも商談に現れた会社員の風情を装っていたのだが、糸川からしてみれば銃を突きつけられた夜との落差に戸惑っているのかもしれない。
「勇司がご迷惑をおかけしていないか案じておりますが」
本題に入る前に、少し相手の口を軽くしておこうと、諒はわざと話を逸らした。会席料理のランチコースが運ばれてくる間を縫って、目の前に座る男がすでに空にしてしまったお茶を店員に頼み、糸川の様子を窺う。
「勇司は……何をやってもかわいいですね」
思いがけぬ答えが返ってきて、諒は口に含みかけたお茶を戻しそうになった。オフィス仕様のスーツにお茶が零れていないことを確認し、
「……ああ、……大人の男性には、あれもかわいいと思ってもらえるのでしょうかね」
と、取り繕ってみたが、せっかく先ほど爽やかに模った微笑みが引きつりそうになってしまった。
何を思い出しているのか、糸川の方は硬かった頬を綻ばせている。強かさと無邪気さを併せ持った一癖ある男を「かわいい」と表現した人物に、諒は初めて興味を持った。
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