Track.1 僕らの始まり

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 そんな幼い憧れを心の中で思い返しながら、冷蔵庫からミントスカッシュの瓶を取り出す。スペアミントを加えた炭酸水だ。ミントも炭酸も菌の繁殖を抑える効果があり、こいつは僕らのシンボルのような飲み物だ。味は悪くない。ホップで苦みを加えたものもなかなか乙な味がする。  さて、僕らが外界に触れることのできる数少ない機会が食事だ。しかし、それはいささかスリリングな体験である。  まず無菌衣の左手首に、液晶画面が埋め込まれたデバイスがある。こいつはセーフティーウォッチと言って、無菌衣の外部と内部の温度、湿度、清浄度が示されるようになっている。清浄度とは大気中に含まれる微粒子の量を表し、僕らにとって感染リスクを見極める重要な指標だ。  液晶画面の横には緑色のINと記されたボタンと、赤色のOUTと記されたボタンがある。赤いボタンを押すと内部が陽圧になった状態で口の部分が開閉し、露出する。――ちなみに、このINとOUTを同時に長押しすると、背中が開いて無菌衣を脱ぐことができる。   そしてポケットから、銀色のペンライトのようなものを出す。これは殺菌灯。電子線のフラッシュで照射範囲を一瞬にして殺菌する。殺菌してから10分は、清浄度が持続する。その間に食事を済ませるのだ。まあ、危なくなったらもう一度殺菌灯を使えばいいのだが。  僕らの食事は、どこか忙しなく、風情がないのだ。  急ぎがちに流し込んだミントスカッシュが、喉に突き刺さる。グラスに注いだ分は必ず一口で飲まなければならないから、誤って一気に注いでしまったときは焦る。軽く咳き込む。ここで常時服用が義務付けられている抗生物質の飲み忘れに気づき、もう一度ミントスカッシュをグラスに注ぎ入れる。ポーチの中から抗生物質を取り出そうとしたが、こちらも切らしていることに気づいた。  ――こいつは弱った。また買いに行かなくては。  幸い、かったるい診察は受けなくても、抗生物質の一部はサプリメントの感覚で店頭で購入することができる。  コンポゲージの電源をぷつりと切る。  築数百年のおんぼろアパートは、扉の油が足りず、ぎぎぎと音を立てる。いいかげん油を挿したいところだが、管理人の許可も得ずにやるのは気が引ける。――最もその管理人も、いてもいなくてもいいような存在なのだが。
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