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1.
「ニコラスの店はどこだ」
「あっちですよ、旦那。見ればわかる」
川のこちら側は音と色に満ちていた。
男は船頭に心づけを渡し、馬の手綱をひいて街道に立つ。
毎回川を渡るたびに思うことだが、むこう側とはずいぶんなちがいだった。人々は声高に話しながらブーツの拍車を鳴らして歩く。あたりを行きかう人々の身なりも、美しく染められた布地をまとう商人から牛追いの少年の粗い服までさまざまだ。とはいえいちばん目につくのは焦げ茶の革の乗馬服に太いベルトを巻き、つば広の帽子をかぶった男たちで、街道で馬をひく男もその中にすぐ埋没した。
町は渡し場のすぐ近くだ。通りの中央にその酒場はあった。三階建てで、二階以上は宿屋になっているのだろう。連れこみ宿かと思いきや、意外にまともな服装の婦人や豪商が出入りしている。板張りのテラスへ上がる段はブーツと拍車の痕でへこんでいた。
男は開き戸を肩で押しひろげたまま、戸口でいったん立ち止まった。何種類かの煙の匂いが男をつつむ。かすかに甘ったるい煙草。肉を焼くストーブの煙。幾人かの服にまとわりついた硝煙。
一瞬ヴァイオリン弾きが演奏をとめたが、ふたたび弓がひかれると同時に室内にざわめきが戻った。入口近くでは革のベストにブーツ、帽子を目深にかぶった荒くれ者が数人、これみよがしにテーブルに銃を置いたままカードを弄んでいた。ひとりがわざとらしいしぐさで首をまわし、帽子のへりを押し上げて、男をじろりとみる。
男は視線も向けなかった。昼間からカードに興じている者たちに用はない。顎をひき、肩をそびやかしてまっすぐ歩く。安酒場めいた雰囲気の入り口と違い、店の奥は上品な作りだった。男は磨かれたカウンターに立つ主人らしい人物の真向に立つ。
右手がひらめくと同時にコインが主人の手に移ったが、うしろから見る者がいたとしても何が起きたかわからなかっただろう。それくらい指先が速かった。
「待ち合わせだ」
「奥に」
主人はコインを握ったままうなずきとつぶやきで応じ、視線をカウンターの背後の通路へ向ける。歩きながら男は靴の踵が砂を踏んでざりりと鳴るのを意識した。大粒の川砂だ。乾季にこの酒場まで、川を渡ったひとの靴を介して運ばれてきたのだろう。
男のブーツはよく磨かれていて軍人風の姿勢と歩き方は隠しようもなかった。おそらく酒場の男たちにはどこかの市の退役軍人と思われているに違いない。
仕切り壁の向こうに足をすすめると、周囲の喧騒はたちまち静まった。男は奥のテーブルで身じろぎもせずに座る影をみとめると、ためらいなく近づく。
「久しぶりだな」という。
ジラールは立ち上がり、手に持ったグラスをあげて会釈した。ランプの光をさえぎる長身に威圧されたような気分になり、男はかすかに体を引く。ジラールは黙ったままふたたび腰を下ろした。その動きはなめらかで優美だ。長い黒髪を首のうしろでくくり、黒いシャツを着た姿にはどこか獣を連想させるところがある。獣といってもさまざまだが、凶暴な部類なのは間違いない。しかし浅黒く日焼けした顔立ちは精悍で整ったもので、凄んでいるわけでもない。凶暴な獣を思わせるのは、右頬にうすく走る細い傷痕のせいかもしれない。
男はジラールの前に座り、給仕が運んできた酒を受け取った。ひと口ふくんで顔をしかめた。
「この辺はこんな酒しか出さないのか?」
ジラールは肩をすくめた。男は相手のグラスをちらりと見て、この透明な液体は何かといぶかしんだ。まさか水ということはあるまい。
男に渡された琥珀色の酒はひどい雑味が混じっている。アルコールの強さだけが救いだ。安酒場ならともかくとしてジラールと男が座る小部屋の雰囲気には似合わないし、主人に渡したコインの額面にも似合わない。
「まあいい、元気そうだな。最近はどうだ? あまり仕事をしていないと聞いたが」
ジラールは無言で男をみつめた。濃茶の眸の中央に琥珀色の虹彩がひらめく。理由もなく男は居心地が悪くなった。何もかも見透かされている気がする。しかしジラールに相対するときはいつもこうだった、とも思う。まだ少年と呼べる年齢の頃から彼はこうでなかったか。
「仕事はしていない。静かに暮らしている」
低い声でジラールが答える。
「なぜだ? 理由を聞きたい」
男はたずねた。
ジラールはかすかに顎をひき、なぜそんなくだらない問いに答える必要があるのか、とでもいいたげな眼つきをした。またも男は居心地が悪くなった。男にこんな印象を与える人物はめったにいない――ジラールのほかにはせいぜいひとりだ。その人物は男がこの酒場へ出向くことになった原因でもある。
「引退するような歳じゃないだろう」
そう畳みかけると、ジラールは今度は、おまえは馬鹿か、とでもいいたげな眼つきになった。男はひるみそうになったが言葉をつなぐ。
「四十にもならないだろう。現役のやつなんていくらでもいる」
生きていればな、という留保は喉の奥に飲みこんだ。
ジラールはまたじっと男をみすえる。まるで、こいつは喰ってもいいものか――と、巨大な豹が吟味しているようだった。男は理由もなく背筋が寒くなるのを覚えた。ジラールとは同世代で、紆余曲折はあってもたまたま少年のころからたがいに見知っている。だが仕事の依頼に来たのは初めてだ。
「この稼業で引退を考えない人間はただの死にたがりだ」
永遠に思えるような沈黙のあと、ジラールはいった。
男は眉をあげる。
「考えはしても誰も引退しない。そうじゃないか? どんな理由だ? 家族のためか?」
「家族はいない」
ジラールの声は冷ややかだった。
「そうだったか?」男は首をかしげる。
「俺の記憶では美人の奥さんがいたと」
「あれは死んだ」
ジラールの声はますます平坦になっていく。男は焦りを感じ、話を本来の目的に戻そうとした。今回の話はジラールが引退するつもりだろうと関係ないのだ。彼には断れないはずなのだから。
「実はあの人から手紙を預かっている」
男がふところから書状を取り出すのをジラールはじっと見ている。彼のような凄腕に一挙手一投足を観察されるのは落ちつかない、と男はまた思う。獲物の立場にはけっしてなりたくないものだ。
書状を渡すとジラールは無言のまま封を破った。その指は長く、手の甲も手のひらも厚い。体のほかの部分と同様にしなやかに鍛えられた筋肉に覆われているのだ。この手はこれまで数多くの仕事をまちがいなくこなしてきた。
今回、男がジラールに頼もうとしているのも同様の仕事にすぎないが、ふたつ重要な違いがある。ひとつめはこれまで誰にも成し遂げられなかったということ。ふたつめは、正義を遂行するための依頼だということ。
ジラールは黙ったまま書面に眼を走らせた。視線の動きは速い。
「どうだ?」
ジラールが最後まで読んだと見当をつけて、男はたずねる。
「念のためにいっておくが、あの人からのじきじきの依頼だ。署名を見ればわかるだろうが……」
視線が戻るのを受けて男は畳みかけた。
「引き受けてくれるか?」
ジラールは男から書状へ視線をもどす。がっちりした肩はぴくりとも動かず、表情にも変化はない。グラスの液体を飲み干して、書状を上着の内側に入れた。
「武器と情報はどのくらいある」
男は安堵し、自分がジラールの拒絶を恐れていたことを自覚した。断れない依頼だとわかっていても、予想外の反応が返ったらどうなるかと恐れていたのだ。この男には昔から予測のつかないところがあった。態度や表情で感情をあらわさない上に無口だから、何を考えているのかさっぱりわからない。
「砦の地形図と内部の図面は入手済みだ。武器も当然手配する。それにこの作戦と平行して我々も行動を起こす手はずだ」
「これがそちらの作戦の一部なら断る」
間をおかずに告げられた言葉に男は眉をあげる。
「もちろんこの依頼は単独のものだ。だが砦の主が消えれば――」
「おしゃべりはやめておけ」
ジラールの声は明らかに警告を含んでいた。男は目だけ動かして周囲をたしかめ、声を低める。
「情報や武器はどう渡す?」
「連絡にはこの店を使う。主人に訊ねろ。明日だ」
「急ぐ必要はない。決行までに十分準備をしてかまわない。ただあまり遅くなると――」
「これが最後だ。先延ばしはしない」
最後というのがジラールが受ける仕事のことなのは明白だった。もう話は終わったとばかりにジラールは立ち上がる。
「どこで暮らしているんだ?」男はあわててたずねた。
「この近くか?」
ジラールはじろりと男を見下ろし、首を振る。敏捷な動きで男の横をすりぬけ、急いでいるわけでもないのにたちまち通路から姿を消す。
「コインをけちるな」
すれ違いざまに男の耳に残ったのはそのひとことで、男は手の中の酒をみつめて眉をあげた。
ジラールは店の裏手にまわった。彼の馬がつながれている。馬丁の少年にコインを渡すと笑顔が返ってきた。
銀貨と金貨。ジラールは「仕事」が絡んだ支払いにこれ以外は使わない。いま渡した銀貨でも、真鍮の貨幣以外を握る機会がめったにない厩番にとっては嬉しい臨時収入だろう。
酒がまずいといったな、とジラールはいましがた別れたばかりの男の言葉を思い返した。ニコラスの店で「奥」を使う場合、支払いは十倍が相場だ。それを知らないはずはないのに、奇妙だと思う。あの男に会うのは数年ぶりだったが、もしやあの人に心酔した年月のあいだに忘れてしまったのだろうか。
あの人――あの老人は、自分自身の価値判断を他人に教えこむことにかけて一流だった。ずっと昔のことだが、ジラール自身もあの人の判断に頼ることで救われたときがある。他にも恩を受けたと感じている事はある。そうでなければ今回の話を承知しなかっただろう。
馬を駆って町を出ると、ジラールは街道沿いにしばらく走った。街道は川につかずはなれず続き、時々蛇行して平原へ曲がるが、ふたたび川のほとりへ戻ってくる。
川といっても船でなければ渡れないほどの大河だ。乾季は中央の深い淵をかこむように砂と草の空地がひろがる。秋口になって水量は増えていた。数日前に上流で起きた嵐のために水は茶色くにごり、大量の枯れ枝が岸辺に打ち上げられている。
ジラールは馬上から川の向こうを眺めやる。こちら側もあちら側も川の周囲は農地と牧場がひろがっている。鳥になって上空から眺めればとりあえずは何も変わらないように見えるはずだ。川がもたらす肥沃な土壌のおかげでこの土地は繁栄している。
だが鷹のまなざしで細部をみつめれば、向こうとこちらでは多くの違いがあることに気がつくだろう。川の向こうにはこちらにないものがある。砦と軍隊だ。こちらには川の向こうにないものがある。評議会と自由連合の商人たち、それに傭兵だ。
土地の繁栄は変わらないが、あちらでは多数の人々が貧しく、唯一の強者が存在する。こちら側にも富める者と貧しい者がいるが、強者はひとりではない。そして強者たちは牽制しあい、ときに殺しあう。
ジラールは長年その殺しあいを請け負うことで生きてきた。しかし今では誰と誰が争い、誰が誰の上に立ちたがっているのかについてまるで興味がもてなかった。この土地では強い者が勝ち、ジラールは強かったから生きのびたが、勝つために必要な強さとは一種類ではない。いまの自分には勝ちつづけるのに必要な熱量が欠けている、とジラールは思う。
川の向こうから来た男にそんなジラールの内心などわかるはずもなかった。
それにしても、あの男は砦の主を殺すことであちら側がどうなるかをどこまで考えているのだろうかとジラールは不思議に思った。この暗殺はとても難しい課題だ――しかし、かの「将軍」を殺したとしても、砦は陥落するとは限らない。何しろあそこは強固な回路魔術の装備で守られているのだ。どうやってそれを回避するか考えなければならないのは自分も同じだった。
金属の基盤に銀で描いた回路を使って魔力を操作する回路魔術は、古くからある精霊魔術――人間の精神や身体に魔術師が直接働きかける魔術――にくらべるとずっと歴史が浅いが、魔術師がその場にいなくても魔力を事物に及ぼすことができる便利な道具だった。精霊魔術にできないことがあるのと同様、こちらも万能ではないが、建物の防備には向いている。砦にはこの仕掛けがいたるところにめぐらせてあるはずだ。
面倒なことにその魔術装置を将軍に売りこんだ人間の見当はついていた。濃い金髪の美麗な男をジラールは思い浮かべる。魔術を使うくせに魔術師らしくなく、武器をとるくせに兵士らしくなく、そして武器を作るにもかかわらず職人のようでもない男だ。エヴァリスト。彼が売る装置は完璧なことで知られていた。偏執狂の「将軍」相手に商売をするのも、彼ならありそうなことだ。
これは吉と出るか凶と出るか、とジラールは思い、早くこの稼業から足を洗おうとあらためて決意した。吉兆を占っているようでは話にならない。
エヴァリストと知り合ったのは八年前だった。ジラールがある賞金首を追っていたときだ。そいつは妙な術を使う大男で、ジラールは取り逃がしてしまった。数少ない失敗のひとつだが、エヴァリストはジラールとはちがう事情でその男を追っていた。
標的はジラールの元を逃れたが、エヴァリストはそいつを追って船に乗り、西方の小国で最期を見届けたという。あのときの標的はおかしな男だった。使う技も正体も得体が知れなかったが、エヴァリストも妙な男だとジラールは思ったものだった。なにしろ後になって事の顛末を律儀にジラールまで知らせに来たのだ。
それからときどき、顔を合わせるようになった。
もっともここ最近は会っていない。いつも騒乱の匂いに敏感な男だった。エヴァリストがふらりとジラールを訪ねるのは周囲で何事かが動きはじめたときと決まっている。
だが砦の一件があるなら――もしかしたらそろそろ顔を出すかもしれない。
川はジラールの横をゆったりと流れている。ジラールは支流へ沿った道へ馬を駆る。馬に蹴散らされた草のあいだで、踏んばるようにして黄色い秋の花が咲く。
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