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夜と酒を愛する者なら、みんな知ってる。この世にあるすべてのバーは二つにわけられる。
いいバー、悪いバー、それがすべて。
俺が上機嫌でまだ明るい時間の「ノーザン・クラブ」のドアを開けると、すでに先生は、カウンターの一番はしっこにちんまりと腰かけていた。
そこは、お目当てのバーテンダーを最もよく眺めることができ、かつ、彼の視界に入りにくい特等席だった。
俺がステップを踏むようにして先生の隣にたどりつくと、セスは、すぐに気づきカウンターの中から微笑んだ。先生はほんのわずかだが身を固くする。
「今日は何を、ニック」
セスはもう俺の顔と名前を憶えている。燃えるような美しい赤毛、くすみのない白い肌。瞳は淡いブルーグレイ。白いシャツを、肘までまくりあげてラフに着ているその姿は、バーテンというより、まるでお忍び中の王子さまだ。
「極上のマティーニがあるって噂だけど?」
俺がコートを脱ぎながら片目を閉じてみせると、セスは秘密を打ち明けるみたいに言った。
「天国行きのマティーニのことを言っているなら、バスタブ一杯分くらいは」
「じゃあ俺のためにほんの少し、そのバスタブから汲み上げてきてもらえると嬉しい」
「喜んで」
そして先生の方を向く。
「先生は?」
「同じものを」
先生はグラスに手を添え、ジンジャエールのお代わりを頼んだ。セスとは決して目を合わせようとしない。それが先生の限界。
セスが後ろを向いてはじめて、ためらいがちにその背中を追う。そんな先生に俺はきゅんとする。
恋はいくつになっても、どんな種類のものでも、見る者の心をせつなくさせる。
「……ニック、いい加減そのくそだらしのない『にやにや』を仕舞ったらどうだ」
おいおい、なんて言い草だ。俺の感傷などおかまいなしか。
「そりゃないぜ、先生! イカしたシャツだって褒めようとした矢先だぜ?」
今日の先生は随分めかしこんでいる。先生のような内気な初老のゲイにとって、ノーザン・クラブは敷居の高い場所に違いない。恋のパワーは偉大だ。
「さあ言ってみろ、何があった。普段からお前の甘ったるいにやけ顔にはうんざりだが、今日はまるではちみつをぶっかけられた上に、天井から砂糖壺が落っこちてきたみたいな甘さじゃないか」
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