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時刻は夜9時半を回っていた。まだ消灯には早いが、それぞれ畳がしいてある船室に寝床の準備をして横になってくつろいでいる。
中学生の遠藤の首は折れ曲がって、今にもオレンジジュースを床にこぼしそうになっている。それでも彼のオレンジジュースは奇跡的に手の中で自立していた。
どちらにせよ、こちらに注意を払っているような人間はいなかった。
ぼくは喉の奥で小さくうなって、顎に手をあてた。
「ね、いいでしょう?三田村さん。一緒に開けて中身を見てみましょうよ。わたしとあなたが誰にも言わなければ、ぜったいにバレないわ」
「いいや、だめだよ。人の鞄の中身を気にするなんて。ただの好奇心で人のプライバシーを覗き見する手伝いなんてできない」
なつみはそこで小さく溜息をついた。ぼくに失望したような目つきだった。でも、べつにどう思われたってかまわない。なにしろ今日初めて会った女の子だし、佐藤のように彼女に恋してるわけでもない。
てっきりぼくはなつみが鞄の中身をさぐることを諦めたと思っていた。でも、彼女の口から出てきたのは思いがけないことだった。
「あのね、三田村さん、これ、ただの好奇心ってわけじゃないのよ。切実なの」
なつみは声のトーンをいつもよりも落としてそう言った。どこか教師ができの悪い生徒を諭すような響きがあった。あなたたちにはまだ分からないかもしれないけれど、世の中はもっと複雑なのよ、と、そう言われている気分になった。
「わたしは今美大に通っていて、もうすぐ4年生になるの。教職免許も一応持ってるけど、一生アーティストとして食べていきたいと思ってる。ねえ、あなたの友達の中にアーティストっているかしら?」
「いないと思う」とぼくは答えた。
「そうでしょうね、だってものすごく少ないもの。イリオモテヤマネコと同じくらいの希少種。ある限定された地域に、ほんの少数しか存在できない。才能があるのはもちろん、運にだって恵まれてなくちゃいけない。だって、アートなんて生活に不可欠なものじゃないもの。お腹が空けば何かを食べないと生きてはいけないし、着るものや快適な住居だって、必要不可欠ね。でもアートはどう?油絵を家の壁に飾らないと息がつまったりする?彫刻を並べておかないとむしゃくしゃしたりするかしら?」
「いや。この前いつ美術館に行ったかも思い出せない」
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