第1章

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「三田村さん、お金持ちってのがわかってないわね」となつみは言った。「ファーストクラスのスイートルームに独りで泊まったって、寂しいだけよ。そりゃ普段はホテルは5つ星の高級ホテルかもしれないけど、何かの気まぐれで若い人といっしょに寝食を共にしてみたいって思うかもしれないでしょ?」 ぼくはなにもいわずに喉の奥で唸った。 「いっしょに鞄の中身を確認するのに抵抗があるっていうなら、ちょっとの間だけ五反田さんをどこか、甲板にでも連れていってくれないかしら?そのあいだにボストンバッグの中身を確認することができる。それならいいでしょ?あなたは五反田さんと海をみながらすこしおしゃべりするだけ。それならあなたの良心も痛まない」 ぼくは甲板、と彼女が言ったことでいまでもそこで待っている佐藤のことを思い出した。仕方がない。どちらにせよ、甲板で佐藤と話さなくてはいまごろ凍えているだろう。 「やってみるよ。どのみち甲板には用事がある。でも、もしも連れ出せなかったらもう諦めるんだよ?」とぼくは肩を落としながら言った。 納得はしていなかったけれど、ぼくは甲板に行く必要があった。もうあれから一時間近い時間が過ぎているのだ。佐藤がコチコチに凍ってしまっているかもしれない。 五反田を探さなくては、と思って船室から出たのだけれど、探す手間もなかった。狭い通路のてすりにつかまってなにやらぶつぶつ言っていたからだ。顔を伏せ、脚に力が入っていないようで、不自然な格好で壁と手すりにもたれかかっている。ようやく人がすれ違えるような狭い通路なので、トイレに行こうとしていた通行人がみんな五反田に迷惑そうな視線を投げた。振り返ってちらりとなつみの方を見ると、彼女はぐっと親指を立ててにっこりと笑っていた。 五反田は酒盛りのメンバーの中で1番年かさの男だった。50代くらいだろうか、と思っていた。頭はふさふさしてるし、まだ黒々としている。ぼくたちを集めて酒を振る舞ったのも彼だった。船室では元気そうで声も大きかったし、おしゃべりが好きでたまらない、という社交的な人に見えた。 でも、通路で背筋を丸めて手すりにつかまる姿ははじめの印象よりもずっと老けて見えた。今では60代くらいに見える。
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