第1章

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ぼくは意を決して五反田の肩に手をかけた。「気分がすぐれないようでしたら、甲板で新鮮な空気を吸うのはいかがですか?」話しかけてみると意外にも彼の意識はしっかりしているようだった。 「それはいい」とぼくの顔を見て五反田は言った。彼はほんとうに足腰に来ているようで、ぼくはふうふう言いながら彼を甲板にまで連れて行った。思い扉を開けて、二人で甲板に出ると、「確かにいい夜だ。風がきもちいい」と五反田が言った。 それは結構なことだったが、ぼくは佐藤を探すので忙しかった。さっき自分のロッカーからダウンジャケットを着てきたおかげでだいぶましにはなっていたが、それでも甲板で吹きさらしは寒い。暗い甲板を目を凝らしながら睨んだが、彼の姿は見つからなかった。 「ひとり旅というのはいいもんだ。そう思わんかね?三田村くん。誰に気兼ねする必要もない」 「ええ、ほんとうですね。おかしいなあ、どこに行ったんだろう」 「思えばこんなにひとりを満喫できてるのは人生のうちで始めてだ。だれも今までわしを放っておいてくれんかった。うるさい雑音ばかり立てて、追い立てる。これはどうしたらいいですか、あれはどうしたらいいですか?もう、うんざりだった。君は結婚はしとるのかね?」 「いえ、さきほども申し上げたと思いますが、結婚はしてません。彼女はいますが、必ずしもうまくいってるとは言えません」 船室のなかで散々聞かれた質問をされたので、すこしむっとしながらぼくは言った。それについてずいぶんと根堀り葉掘り聞かれていたので、また同じように説教をされるのではないかと身構えた。 「ああ、そうだったな。うっかりしておった。気を悪くしないでくれ」 「いえ、気にしていませんから」 「しかし、別れたのは正解だ。男というのはひとりの時間を大事にしなくちゃならん」 「いや、ぼくは別れたわけでは」と抗議したが、五反田はぼくの話は聞いていないようだった。ぼくの抗議にかまわずに彼はつづけた。 「実を言うとうちも最近別れたんだがね、いわゆる熟年離婚というやつだ。しかし、せいせいしたよ。自分がいかに孤独を愛しておったかがよくわかった。
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