第1章

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花子はわしがおらんと何もできん女だった。あれはお嬢様育ちでな。肝が座ってないというのか、重要な決断はわしに頼り切りだった。ほんとうに、レストランで自分の頼むメニューすらわしがおらんと決められん始末だ。そのくせしょっちゅうわしのやることなすことに目くじらを立ててそりゃあ息苦しくてな。子どもたちも今頃大変な思いをしておることだろう」 「お子さんがいらっしゃるんですね?」 「社会人の娘と大学院生の息子がおる。ほんとうに目に入れても痛くない。できのいい子どもたちでな、娘のほうは立派な会社に入った。君も知っておるんじゃないかな?」 そう言って五反田は会社名を言ったが、ぼくはその会社のことを知らなかった。でも、フェリーから下りてずっとあと、札幌のホテルのロビーでコーヒーを飲んでいるときにふと思い出してみた。どうやら五反田はその会社の名前を間違えて覚えているのではないかという可能性に行き着いた。その推測が正しいとしたら、たしかにぼくでも知っている超有名な人気企業だ。インフラ関係で国内大手だからまず潰れることはないだろう。 それに五反田は息子の研究内容もうろ覚えだった。門外漢だからと言い訳していたが、「微生物を溶液に入れていろいろする研究をしている」という説明では全く要領を得ない。 微生物が重要なのか、それとも溶液が重要なのか、いろいろする行為が重要なのか。目的はその微生物の生態を調べることなのか、薬効を調べることなのか、それとも単に遊んでいるだけなのか。それすら伝わらない。 あげくに、「きみは子どもはおるのかね?」と五反田は聞いてきた。 「いや、ですから……」と抗議しようとしたが、もはやその気力すら残ってはいなかった。「おりません」とだけ答えて、たっぷり五反田の思い出話に付き合った。五反田は話すだけ話とまたトイレに戻り、その後温かい船室で毛布にくるまって眠り込んだ。 船室に戻ると、遠藤が完全に眠り込んでいた。壁に沿うように倒れて、熟睡しているようだったが、どういうわけかオレンジジュースの缶は倒れていない。しっかりとそれを握りしめながらも一滴も床にこぼしてはいないようだった。 いったいどうやって眠ったのだろう?と不思議になった。 ちらほらと眠りについている人たちがあり、他の人達も食事や歓談をやめてスマートフォンをいじっていたり、本を読んだりしてくつろいでいる。
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