第1章

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普段はユーチューブで猫の動画をみながら飲んだくれてるぼくだけど、ひとたび2等船室に乗ったなら、気のおけない旅の道連れが出来るかもしれない。タフでワイルドなもう一人のぼくがそうささやいたのだ。そして、乗ってしまってからそいつをぶん殴って黙らせておくべきだったと気がついた。おとなしく飛行機のチケットを取っておけば良かったのだ。もしくは、北海道旅行自体をキャンセルするか。 どちらにせよ気ままな一人旅だ。誰に文句を言われる筋合いもない。 ある限定された用途の機械部品を売るのがぼくの仕事だ。ルート営業といって、すでに取引している会社へ売り込みに行ったりするときは、さほど緊張しない。よほどのことがない限り、ぼくの責任で商談が破断になったりすることもないし。 お客さんもいつも同じ人が対応してくれるから、安心だ。今日は暑いですねえ、梅雨入りもまだなのに。ああ、そんな、お構いなく。お子さんはお元気ですか?もう中学生?早いもんですねえ。受験ですか?いやあ、ぼくは勉強はからきしでしたから。ははは。 それに自慢じゃないけれど、ぼくはずいぶんと取引先の担当者からは評判がいいみたいだ。このあいだ出張でどうしても外せない用事ができたとき、棚瀬先輩がぼくの担当のお客さんに行ってくれたけれど、三田村くんはどうしたんだ?と心配しきりだったそうだ。いったん懐にはいってしまいさえすれば、あとはだいじょうぶ。相手の話をじっくり聞いていればいい。世間の大半の人は自分のことを喋りたくて仕方がないのだ。高校受験が迫っているのにエレキギターを毎晩遅くまでいじってる長男のことや、最近妙に色気づいてきて、スカートの長さを短くして生活指導の先生に怒られてる長女の話を聞いてさえいれば、相手はいつも上機嫌だ。多少のミスは大目に見てくれるし、いろいろな局面で便宜を図ってもくれる。 でも、このご時世だ。販路の拡大のために新規の会社さんと商談を進めなくてはいけないこともある。商談室で初めて会った担当者に探るような目で見られると、ぼくはうまく息をすることができなくなる。電話でアポイントメントをとるとき、いつも脇に大量の変な汗をかく。電話をかける前や、新規のお客さんのところに行く前、ぼくはトイレの個室に30分はこもる。目をつぶる。スマホで猫の画像を見る。NHKでやっていた緊張をほぐすへんな体操をする。挙句、隣の個室の人に壁を叩かれる。
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