第1章

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新規成約数は限りなくゼロに近い。もともと限定された用途の部品だから新規顧客が少ないというのもあるけれど、これはひどい数字だ。みんな口には出さないけど、給料泥棒だ、と思っているに違いない。たぶん向いていないのだ。 フェリーのトイレで30分ほどこもり、それからまた船室に戻るか、それとも宴会が終わるまで甲板に逃げようか、しばらく階段で迷っていた。知らない人と話をするなんて、ましてや一晩じゅうずっと一緒にいるなんてぼくには無理な相談だったのだ。 だから、佐藤がぼくのすぐそばにいることに気が付きもしなかった。 「やあ、三田村くん。なかなか戻ってこないから心配しちゃったよ。飲ませ過ぎちゃったかな?」 飛び上がるくらい驚いたけれど、ぼくはそれを表に出さないで彼のほうを振り向いた。ここではアウトローで通っている。 佐藤とは今日会ったばかりだ。ぼくの肩に手を乗せて、いかにも酒豪、という感じで闊達に笑っていた。でも船室で彼が飲んでいたのはお酒を覚え始めたばかりの女子大生が飲むような缶入りのカクテルチューハイだったはずだ。 「いえ、酔ってはいないんですが」とぼくは言いかけて、やはりやめることにした。ぼくは五反田さんの持ち込んだビール4本と安いウィスキーを瓶で4分の一くらい飲んでいる。酔ったと言ってもやわだと非難されたりはしないだろう。おほん、と咳払いして「いや、やっぱりちょっと酔ったみたいです。船室は蒸すんで、少し甲板で風にあたろうかなと思いまして」 とにかく一度一人になってぼんやりしたかった。甲板ではまだ酒盛りが続いているのがドアの前からも分かっていたからだ。 「それはいいアイデアだね。俺も付き合うよ。独りじゃあ寂しいだろ」と言って佐藤は笑った。 ああ、そうなのだ。とぼくは思った。佐藤のような人間は、独りになりたいという人間の考えなど理解できない。だからもちろん、甲板に出るのを付き合う、というのは彼なりのやさしさなのだ。 重たいドアを開けて二人で甲板に出ると、数人の人がそこにはいた。風は強いし、とっくに日は落ちていたので眺望は望めない。それに曇っていて星は見えない。それでも新鮮な空気を求めて数人の人たちが甲板に出ているようだった。 「甲板はいい。海の上では金持ちも、貧乏人も関係ない。誰もがこの海の上では平等だ。三田村くんもそう思うだろ?」
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