第1章

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「そうか、なるほどな」と佐藤は言って、それからしばらくもじもじしているようだった。何か言いにくいことがあるのだろうか、とぼくは震えながら考えていた。せめて、あの買ったばかりのダウンジャケットがあれば、と考えていた。 「なあ、いい女だ。そう思うだろう?」 「え?」 「なつみのことだよ。あんたもそう思うだろ?若くて、キラキラしてて、純粋だ。ああ、もうこの気持ちは隠し立てできない。あいつのことが好きなんだ。あんな女は生まれて初めてだ。すべてがおれを狂わせる。ようやくおれと釣り合いのとれる女が目の前に現れたんだ。それがあいつさ」 ぼくは佐藤の言う「なつみ」のことを思い出そうとした。もちろん船室で酒盛りが始まったときにいた紅一点だ。ぼくが自己紹介をしたとき、彼女がぼくの勤め先を聞いたので答えると、彼女は明らかにぼくに興味を持ってくれた。 実はこういう経験はよくある。ぼくの勤め先はある有名な大企業によく似ている名前をしているのだ。だから、飲み会で一瞬女の子たちが沸く。 『えっ、あの大企業にお勤めなんですか?』そして値踏みするようにぼくのことをジロジロ見る。あきらかにぼくの評価を目盛りひとつぶんかふたつぶんくらい高くしようとしているのがぼくにはわかる。まあ、他の欠点は目をつぶるとして、この男にもいいところがあるんじゃないか、というモードに入るのだ。 だから、ぼくが彼女たちの勘違いを解くとがっかりしたような顔になる。老いも若きも、その反応は変わらないけれど、女子大生のなつみはそれが露骨だった。僕が誤解を解くと、「あら、そっちの会社の名前は知らないわ。残念だけど」と正直に言った。女の子からそういう態度をされることに慣れてはいたけれど、いい気持ちはしなかった。多分、彼女がまだ二十歳そこそこだからだろう。そういうわけで、佐藤の言っているなつみ像と、ぼくの知っているなつみ像には大きな乖離が見られた。でも、そうした乖離は別に珍しいことじゃない。 「彼女は札幌で友達と会うって言ってた。今この瞬間を逃せば、たぶん彼女と親しくなるチャンスはない。わかるよね?三田村くん」 「あー、ええ」とぼくは曖昧に笑った。それから言った。「どういうことでしょうか?」それとぼくが甲板に呼び出されたのと、どう関係があるのだろうか。
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