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あとで気がついたことだが、なつみは五反田が近くにいないことを確認していたのだ。中学生の遠藤は、オレンジジュースの缶を持ったまま壁にもたれかかり、眉根を寄せて目を閉じている。背筋がいいので瞑想しているようにも見えるが、たぶんうつらうつらしているのだろう。そして、佐藤はきっとこの寒空の下、ぼくがなつみを呼び出すのを甲板で待っている。五反田は飲み過ぎのせいか頻繁にトイレにたつようになっていた。
「もう、よしてよ」そう言ってなつみがぼくのほうに顔を近づけた。「五反田さんがあのバッグをすごく大事そうにしてるってこと。ほら、あなただってちらちら見てたじゃない」
なつみの後ろには、五反田の巨大なボストンバッグがあった。
「ああ」とぼくは思わず漏らした。ぼくとしては、佐藤との約束を果たすためになつみにちらちらと話を切り出すタイミングをうかがっていたのだ。五反田のボストンバッグがそこにあるなんて、初めて気がついた。しかし、ぼくが漏らした声のおかげでなつみははやとちりしたようだった。
彼女は『ぼくも五反田のボストンバッグの中身に夢中になっている』そう思ったようだった。
「あのひとの口ぶりじゃ、そうとうの値打ちのあるものがなかに入ってるに違いないわ。なんて言っていたかしら?見る人がみればその価値は分かる、だったかしらね?」
「そういえば、生命の次に大事な全財産、とも言っていたような気がする」
ぼくは記憶の糸を手繰り寄せてそう言った。実際、五反田はその巨大すぎるボストンバッグをとても丁重に扱っていた。両手にかかえてゆっくりとおろし、酒盛りの最中もつねにボストンバッグに手をかけていた。まるで映画に出てくる裕福なアメリカ人夫婦がソファでくつろぎながらアームレストでお互いの手を触れ合わせるように。
なつみは「すこし中身を見るくらいならいいんじゃないかしら?」と言った。
「いや、それはダメだよ。だって、人の持ち物じゃないか。それに、きみが五反田さんに中身を聞いたときもはぐらかされてただろ?きっと中身を知られたくないんだよ」
「ええ、だから、こっそりよ。わたしも、あなたもボストンバッグを開けたなんて話さなければいい」
「共犯になれってこと?五反田さんにバレなくたって、他の人の目があるよ」
「他の人の目、ね?」なつみはいたずらっぽく笑って周りを見回した。
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